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おお広瀬、死んでしまうとは情けない



数日前、1年振り10000回目の登板、という感じで死にたい死にたいとのたうち回ってたわけですけど…




その後に読んでたこの本に面白いことが書いてありまして。

たとえば「死にたい」と訴える人は、自分が死ぬ夢をよく見るのだそうです。ユング派心理学者の河合隼雄はその夢を「今の自分を破壊して、生まれ変わりたい」願望であると分析します。
「死にたい」と訴えるのは、肉体的に死にたいということではなく、社会的に死にたいということ、つまり「生まれ変わりたい」ということなのだと。 そうだとすれば、肉体的に死ぬ自殺を思いとどまり、社会的に死ぬことを考えることはできないでしょうか?



た、確かに…!


前回の話になりますが、人生とは、会計を済ませて用もすんで帰りたくても店から出して貰えないスーパーマーケットです。

そして、「死にたい」というのは裏を返せば「もうこのスーパーでやることは無い」ということ。

そうであれば、スーパーマーケットの中に家を作ればいいわけです。


死にたくなった時、生きながら死に転生するというのはだいぶトリッキーなように感じますけど、
案外そうでも無いような気がします。

以前、精神科医の書いた、境界例人格障害の臨床の本にあったんですけど、
境界例の人の症状が改善するためには、どん底まで落ちる必要があるそうなんですよね。
どん底(だいたい自殺)を突き抜けて死ぬこともあるけど、とにかく底を打たないことには回復しない。

これもある種の「生きながらにして転生してる」ひとつの例でしょう。


そして、そんな大掛かりなものでなくても、精神的な死というのは色んな段階があると思うんですよ。

一番最小単位なものは、その死にたいことを一日だけ辞めてみる。とかでしょう。
そこそこのものだと、世界放浪の旅に出る、とか。

考えてみると、二年前、安室透さんと知り合う数日前も死にたい死にたいとチュンチュン騒いでいた気がします。
もちろん出会ってからは追っかけるのに忙しくて死にたいなんて言ってる暇はなかったんですが、あれも、その時点での自己が死んで安室透さん一色になったという点では一種の精神的な死でしょう。



こうして考えると、人生には意外と色んなタイプの精神的な死が転がってることに気づきますね。

精神的な死の凄いところは、物理的な死と違い、「転生後の選択を自分で選べる」ことだ思います。

だからこそ、もっと気軽に。
死にたくなったら、いつだって死ねばいい。

問題は、精神的な死は、例えば気が狂ってしまう、とか、人と生きていくのが辛い、みたいな病気系のハード面の問題を解決できないところですけど。
でも、もうそれを解決するのは物理的な死以外ないので諦めるしかないですね。
折り合いという所でしょうか。


そう思えば、このスーパーもまぁまぁ悪くない気がするのだから、人間というのは不思議なものです。







「もっと自分を捨てなさい!過去の自分は死にました!何度でも生まれ変われる人間が強いのです!」
ユーリ!!! on ICE 第三話より

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