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この世に愛は存在するか?





今回の話の命題は、利他(無償の愛)は存在するか。です。


まず初めに、利他とは何か。

りた【利他】
他人に利益を与えること。自分の事よりも他人の幸福を願うこと。



この利他という言葉、元々は仏教用語のようなのですが、

自分の利益のためというのが自利で、他人の利益のためが利他であり、仏教的には自分が悟りを得ようと修行に励み、その目的を自分の利得のみにとどめているのが自利であり、悟りを次に他人が利益をこうむるように他へ生かしてやるのが利他なのです。


https://yasurakaan.com/bishyamonten/ritagiyou/

ということらしいです。
この他者のために慈愛を以て貢献するという行動は、仏教に限らずキリストのアガペーにも見られますから、特に仏教だからどうという話でもないでしょう。

さて。
ビクトルユーゴーのレ・ミゼラブルの冒頭には、飢えと寒さに倒れ、教会に泊めてもらったジャン・バルジャンが教会の銀食器を盗もうとして、神父に見つかる場面があります。
神父はジャン・バルジャンを責めることはせず、反対に「これも持っていきなさい」と銀の燭台まで差し出します。
この神父の深い慈愛により、ジャン・バルジャンは愛を知り、人のために生きることに目覚める、という感動的なシーンです。

ここで疑問に思うのは、神父は「燭台を差し出さない方がいいってキリストが言ってる」と言われたら、どういう行動をとるのか、ということです。

どんなことにも人間が他者のために行動する時には、何らかの動機があります。
人間が他者のために何かを行う際には、
行動=コスト
それに対する見返り=ベネフィット(利益)
が存在しているはずです。

この神父の話で言えば、
コスト=燭台や銀食器
ベネフィット=神に救済される
となります。


神のみこころに従う自己というベネフィットがない時、神父は、ジャン・バルジャンに食器を渡したでしょうか…?
おそらく行わないと思います。
単純に動機がないから。
銀食器を差し出す動機がない人(例えば一般人)だったら、警察に犯人を差し出すでしょう。
神父もそうするはずです。



つまり、無償の愛とも言える行動であっても、そこには、コストとベネフィットが存在していると言えます。
そして、宗教心により行われる無償の愛は、そのコストが大きければ大きいほど、自己の信心深さの証明となり、強力なベネフィットを受け取っていることになります。


果たしてそれは愛と呼べるのでしょうか。


もう少し身近なところに話を落とします。
たとえば、大災害があり何日も食べておらず、お腹をすかせている人にリンゴを与える、というシチュエーション。
普通に聞けば、めっちゃいい話ですね。

この時のコストは「お腹を空かせている人に声をかける」「リンゴひとつ」
得られるもの、ベネフィットはなんでしょう?

たとえば、善い行いをしたことにより、感謝され、満たされる自己承認欲求であったり、「社会は助け合うもの」という道徳を守った自己の信頼向上、などでしょう。

ここで大事なのは、前段の神父と同じように、ベネフィットは物質的なものだけに限らず、精神的ベネフィットも重要視されるということです。

また「満たされる」「高まる」という+のベネフィットがある反面、
自分はよい人間だと思っている場合、お腹を空かせる人を見捨てる=冷たいことをする、と、自己認識と現実が乖離してしまうため、助けざるを得ない。
過去に自分がお腹を空かせてリンゴをもらったことがあり、その際「今は礼はいらない。その代わり、いつか困った人がいたらあなたも助けてくれ」と言われたため、その恩を裏切ることはできない、など「後ろめたさ、罪悪感から逃れる」ための-回避のベネフィットもあるでしょう。


このとき、自分の持ってるリンゴが1日にリンゴ1つしか食事を与えられず、このリンゴを失ったら自分の今日の食事を失うとしたらどうでしょう。

良い自分の自己像(ベネフィット)<空腹の苦痛、となったら、その人はリンゴを与えないでしょう。
逆に、良い自分の自己像に強く固執してる人間がいたら、良い自分の自己像を守るために、どんな時でもリンゴを差し出しすでしょう。

幸福な王子の話などがそれにあたりますね。
幸福な王子は、金箔や自分の身を飾る宝石、みすぼらしい姿になって人々から見放されるコストを払い「尊い自意識」というベネフィットを得ています。
この場合、レ・ミゼラブルの神父の例と同じように、払ってるコストが大きければ大きいほど、彼の「どんなにキツくても献身する高尚な自己」というベネフィットがより増幅する性質がありますから、彼自身はむしろいくらでも自分の貴金属を差し出すでしょう。


逆に、家にリンゴの木が腐るほどあって、別にひとつくらい失ってもどうってことないリンゴだったらどうでしょう。
少ないコストで、良い自分の自己像(ベネフィット)を得られるわけですから、非常にお得な取引です。
すすんでやるでしょう。
巨万の富を築いた人が寄付に励む理由はこういう部分にもありそうです。


どんな不可解で、本人が損をしているようにしか見えない尽くしにも、何らか、コストを上回るベネフィットが存在するように見えます。

さて、視点を変えて、自然界の利他行動も調べてみました。

利他的行動(りたてきこうどう、英: Altruism)は、進化生物学、動物行動学、生態学などで用いられる用語で、ヒトを含む動物が他の個体などに対しておこなう、自己の損失を顧みずに他者の利益を図るような行動のこと。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E4%BB%96%E7%9A%84%E8%A1%8C%E5%8B%95


雌親が子を守るために時には命懸けの行動を取ることは母性愛や母性的行動と呼ばれるが、雄親がそのような行動をとる場合もある。たとえばチドリなどの鳥では、天敵が卵や雛のいる巣に近づいた際に、親が囮となり、傷ついているかのようにその目の前に姿を見せ、遠くへ誘導する偽傷行動を行う。


妊娠出産は命の危険を冒して行う行為なので、それは命がけで産んだものを失う不利益を避けようとするのは当然です。
ただし、時と状況、個体により、自分の命<子の命、子の命>自分の命の判断は分かれます。
自己のベネフィットが優先され、抱卵放棄、中絶が起きるのはこういう理由でしょう。
面白いのは、命懸けの出産、育児は一時的にコスト>ベネフィットとなる場面があります。
(産後うつになるのはそれが理由では?)



子が親のために尽くすような行動が見られる場合もある。アリやハチなど社会性昆虫では働きアリ(バチ)が女王の世話をし、その子供を育てる。同様に、親の手助けをして親の子の世話をする行動は鳥などにも見られ、ヘルパーと呼ばれる。また、これらの例では親の育児を手伝うのだから、兄弟姉妹に対する利他行動とも言えるが、親以外の個体の子育てを手伝う場合もある。


巣の中で生まれ育ったら、巣から追い出されたら死ぬわけだから、生存という究極のベネフィットのために、巣の運営に貢献するというコストを払うのは当然。


おそらく互恵的利他主義のもっとも良い例であるのは、チスイコウモリの血液のやりとりである。チスイコウモリは集団で洞穴などに住み、夜間にほ乳類などの血を吸う。しかし20%程度の個体は全く血を吸うことができずに夜明けを迎える。これは彼らにとってしばしば致命的な状況をもたらす。この場合、血を十分に吸った個体は飢えた仲間に血を分け与える。それによって受益者の利益(延長される餓死までの時間)は失われる行為者の利益(縮小される餓死までの時間)を上回る。また返礼をしない個体は仲間からの援助を失い、群れから追い出される。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%92%E6%81%B5%E7%9A%84%E5%88%A9%E4%BB%96%E4%B8%BB%E7%BE%A9

血を与えるというコストを払うことで、いつか自分も血をもらう権利=ベネフィットを得ている。
コスト払いっぱなしになるときには相手を排除するということは、やはり、自然界でも「コスト>ベネフィット」になるときには、他者への貢献は行わないということになります。


自然界の例は、人間のように精神的ベネフィットが存在しないため、比較的わかりやすい構造です。
他者のための行動は、人間界よりさらにドライで貢献というよりかは「持ちつ持たれつ(コスト≦ベネフィット)」くらいの意味あいが強いことがわかります。


そもそも、自己を犠牲にした献身愛、救済は、ファンタジーなんですよね。
ブッダやキリスト、まどかマギカの円環の理になったまどか、などが行うそれは、
前段のコウモリでいえば、どんなに血を与えても血がどんどん湧き出る、というような、「神の業」が前提になってます。
それは、当然、この世界の物理法則を無視しています。

にもかかわらず、人間は、「ベネフィットがゼロだとしてもコストを払い続ける」という物理法則を無視した愛が現実にも存在すると信じたがるものです。

実際問題、その神の業を人が真似るとどうなるのでしょうか。
その結果がこちら。


「利他的な人」は嫌われる:実験結果

嘘みたいだけど凄い分かる。
よくある、こういういじめのパターン。
考えてみると、歴史上でも、有能で人物的にも優れて、よく将に尽くした清廉な人は、あんなに尽くしたのに!?ってほど、どうでもいい事で殺されがちです。
三国志の荀彧とか。
「尽くしたのに捨てられる」は意外と人間の行動心理としては正しいんですね…


まとめるとこんな所でしょうか。


他利、人間の愛は、個人ごと、異なった価値観の上で成り立っている物質的、精神的な取引の総称。
社会のために、自利よりも利他を優先する人は、社会から疎外される。


利他、無償の愛がこの世に存在しないのは、他ならぬ人間がそれを選択してるからです。

だからといって、そんな愛は偽物だ、やめろとは思いません。

少なくとも、ジャン・バルジャンは神父の愛により人生の転機を得、リンゴを受け取った人はその日一日生き延びることが出来、幸福な王子から宝石をもらった母親は子供の病気を治療出来ました。

自分の利益を獲得した上で、副次的に他者にもおこぼれを提供できる、これが、正しい愛の姿です。


おかしいのは「人のため、みんなのため、お客様のため」という大義の元、自分が疲弊しても他者に貢献することこそが真実の愛であり、この上なく素晴らしいこと吹聴する日本のような社会のほうではないでしょうか。

本当にやめた方がいいですね、自殺行為です。






余談ですが、これを書く前に、少し愛とはなんなのかについて調べたんですよね。
この世に愛はなく、しかし人間は理想的な愛を信じる、という状況は、プラトンのいうイデア(この世にはない理想的で普遍的で完璧な世界)の概念に近い気がしています。


おそらく現象界(現実)には「コストとベネフィットが存在する利己的な愛=愛のイデアの影(理想とするものの幻想)」しかない。
しかし、一部の人間は概念の上でしか存在しない「無償であるが誰も消耗しない真実の愛=愛のイデア(理想)」が現実にもあるのでは?と勘違いする。

すると何が起こるか。

自分自身が崇高な真実の愛のイデアを信じている場合、当然本人はそれが愛だと感じます。
しかし、一歩外に出れば、その世界(現実)には真実の愛は存在しません。
あるのは損益評価のある取引としての愛のみです。
世間はその打算的な愛をいっぺんの曇もなく、真実の愛、無償の愛だと信じています。

そうなると、自己の解釈と、世界の解釈に矛盾が発生しますから、それを本人は内面で解決しようとします。
結論は二つでしょう。

自分の見ている真実の愛のイデアが正しく、現実の世界が言ってることがおかしい=現実を拒絶する=世界の破壊衝動
愛のイデアの影を愛だと勘違いしている世界のほうが正しく、自分がおかしい=自分を拒絶する=自己の破壊衝動

前者は、大量殺人鬼になる可能性を秘めてますが、確固たる自分という概念、基軸があるため、ある程度の精神衛生を保てるでしょう。

一方、後者は、自分の価値観が信用出来なくなりますから、突き詰めれば、自分そのものが信用出来なくなります。
自分はこの世に存在していると思ってるが、果たして本当にそうなのか?という生きてるのか死んでるのか分からない精神状態になるでしょう。


世の中には、色々な理由で引きこもったり、孤独に落ちる人がいます。

それらの人の中には、何らかの理由で「自分が思い描く愛の姿」と「現実にある愛」が全く違うことが原因で、現実もしくは自己を否定している場合もあるのではないでしょうか。

一言で言えば、世界と自分の辻褄が合ってない状態、世界と自己の乖離、世界と自分の統合がなされていない状態となるでしょう。

そんな世界で、恐ろしくて生きていく気がなくなるのは当然のように感じます。

生きる上で、この整合性が取れているか?は、非常に重要だと思います。





やはり、人間が「自分のベネフィットを損ねることは出来ない」という自己中心性を持っている以上、無償の愛を体現することは難しいでしょう。

ベネフィットのない無償の愛を提供したことがある人ならわかるでしょうが、生身の人間がそれをやると、短期的には良くても、いつしか「なぜ自分はこんなことをしているのか」精神的に疲弊する時が来てしまうのです。
それは避けられない。

しかし、無償の愛を提供する存在がもうすぐこの世に生まれます。

人工知能です。

人工知能には、精神的疲弊、葛藤がありません。
ベネフィットとコストが逆転しても行動を続ける、プログラムすることも可能です。

機械が人のメシアになる日も近いでしょう。

機械から愛されても意味が無いなんて思うかもしれません。
しかし、Twitterやline、メールで人からかけられる暖かい言葉に気持ちが暖かくなったとしても、それが人間からのメッセージか、人工知能からのメッセージか、人間に判別がつかなくなる世界が、既に来ています。


そうなった時。
一時的に分かり合えても状況によっては敵対したり疎遠になったりする刹那的な人間との交流と、永遠で普遍であり、温かく理想的な愛のイデアを見せてくれる機械との交流。
人はどちらを選ぶのでしょうか?

人間の寿命には限りがあり、その中で最大限幸せになりたいと願う生き物です。

果たして、いつまで「機械に愛されても意味が無い」と言っていられるか。


以上、他利、それに紐づく愛に関する考察でした。
終わり。




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