20年続いた希死念慮を治した方法
もう20年近くの付き合いになる希死念慮。
実は、希死念慮の原因について。
実家暮らしの頃は、子供の頃から両親が毎日罵声を浴びせあっていたこと、
一人暮らしをしてからは(そういう経緯で人間が怖いので)徹底的に孤独を貫いて、仕事以外で一切人と会話しない孤独を極めた生活をしていたので、
それが原因かと思ってたのです。
ただ、最近訳あって実家で暮らしてるのですが、両親も年なので毎日罵声とまではならず(まぁ週1~2くらい)それなのに希死念慮が止まらないので、罵声も孤独もないのに希死念慮が起きるなんて、と不思議に思うようになって、自分なりに調査をするようになりました。
その中で、
死にたい理由の一つが疲労
ということを発見しまして。
あと、温泉とか銭湯、足湯に行くと、短期的に希死念慮を飛ばすことができることを見つけました。
入ってる時点で改善を感じますし、帰り道とか嘘のように安定します。大体翌日くらいまでは持続する。
家のお風呂だと効果が薄い。
こういう所から、希死念慮は、鬱によって起こるものではなく、疲労とか、血流の悪さ、寒さが原因で自律神経の乱れが深刻になって起こるものじゃないのかなと思うようになりました。
あと、希死念慮について真剣に調べるようになったもうひとつの理由なのですが。
実は私はうつ病の診断を一度受けたことがあります。過労で。
ただ、その期間は一切希死念慮がでなかったんですよね。
世間では希死念慮はうつ特有のものといわれるので、私自身も希死念慮がある=ずっと軽い鬱みたいなものだと思ってたのですが、うつと希死念慮は関係なく存在することも可能なのでは???と疑問に思うようになりました。
余談ですけど。
鬱で全く動けないこと(不安症やパニックなどはなく体だけ)と、希死念慮。あと私は喘息を患ってて発作が起きると呼吸できないのですが。
どれが一番きついかって言うと、圧倒的に希死念慮です。
当時ベットで死んだようになりながらも
「普通の人(希死念慮が起きない人)ってこんなに精神が楽なんだ…人生の難易度全然違う、別の世界みたいに楽、チートじゃん」
と感動したのを今でも覚えています。笑
鬱が治るにつれ希死念慮も元気になってきましたけど。
その事を最近ふと思い出して、鬱と希死念慮の関係について調べる中で、何と精神科の医師が同じことを言ってるのを発見しました。
医師曰く。
希死念慮の謎
以下引用
希死念慮および自殺既遂は、必ずしもうつ状態の程度と連動していないようにみえる。うつ状態はぼんやりとしてあることはあるくらいなのに、ダラダラ希死念慮が続いていたり、また人によれば、中等度以上のうつ状態なのに全く希死念慮がないこともある。希死念慮が決して出てこないうつ状態の人もいるのである。
ところが、長い期間希死念慮が続いている人は、その「希死念慮」はうつ状態と分かれて、ある種、独立した症状になっているようにも見える。これは帯状疱疹のかつての傷が、時間が経ってもたまに痛みを生じることに似ている。これはあたかも脳内に「うつ状態」と独立して「希死念慮を生じる神経伝達経路」が形成されているようにも見える。
それはセロトニン優位の神経伝達なのかもしれない。
過去ログに希死念慮は「ある物質」と書いたこともある。僕が「物質」と言った場合、器質的というニュアンスがある。
長期間の希死念慮は既に脳内で傷が生じていて、それから発現するという感覚なのである。これは心理療法家の発想とはあまりにもかけ離れている。自分でこんなことを書きつつ、思わず苦笑してしまった。
その「希死念慮の神経伝達経路」はセロトニン系なので、それが活性化すると、かえって希死念慮が激しくなるという性質を持つ。
で、
「しにたいを唱え続けることで脳に「希死念慮の回路」を作ることが出来、それを固定化できることが本当なら、ほかの言葉でも「回路」をつくることができるようになるのでは」
と考えたんです。
要は、脳に出来た傷(希死念慮の回路)より強い回路を人工的に作って打ち消せばいいのでは?ということ。
言葉としてはなんでもいいのです。
美味しいケーキでも、美女とデートとか、イケメンにモテモテとかでも。
ネットで心理学的に復唱するとメンタルにいい言葉をいくつか調べて、大丈夫、とありがとうあたりが妥当と知り、ありがとうを唱えることにしました。
なんかありがとう教とかあるみたいよ。笑
とにかく希死念慮が出てきたら「ありがとう」。
暇さえあれば「ありがとう」と心の中で唱える。
ひたすら唱える。
で、やって見て驚いたんですが。
時々ひとりの時は実際「ありがとう」って言葉にすると、音としては「ありがとう」が耳から入るため、他者からありがとうと言われたように感じるんですよ。
脳ってアホだな。
これがめちゃくちゃに大事で。
そもそも希死念慮とか鬱の強いひとって、
自尊心が異様に低いと思うんです。
そもそも自分が嫌い。
「うつヌケ」の田中圭一さんが大体の鬱をやった人は「自分が嫌い」であり、「人から認められる」ことで鬱をだってしゆくということ総括してたんですよね。
この状態を「ありがとう」と口に出すことで人から感謝されてるような脳反応を擬似的に作り出して、自尊心を鍛えることが出来てるのではと思います。
これはこれで病的なんだけど。
希死念慮でほんとに死の行動を起こしそうになる反面、ありがとうは死の危険がないというだけでもメリットだと思っていて。
一生この希死念慮の回路の奴隷として生きる人生か、ほかの言葉唱える人生どちらかしかないのなら、もうなんでもいいっていう。
これ始めてから希死念慮でてないです。
出そうになったらひたすら別の言葉で脳を塞ぐわけですから、当然ですけど。笑
逆に言うと、それくらいのショックがないと希死念慮と向き合っていけないのかなと今は思いますし、
そういう機会がこれをよんでる希死念慮を持つ人にも訪れることを願います。
参考になれば。
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