0を1にする人。1を2にする人。
今の会社入ってから、気づくようになったんだけど。
世の中には、
0を1にする人(創造する人)
と
1を2にする人(拡大する人)
がいて、それは別々のものなんだな、と。
というのをはっきり思ったのがこれなんですが。
今日も朝から元気にネガティヴな漫画を描いております。 https://t.co/0wpb2ziuFn
— 佐藤秀峰 (@shuho_sato) October 24, 2017
これは佐藤さんのマンガ家人生を書いた実録漫画。
佐藤さんは、もともと出版社で書いてたけど、権利関係でのごたごたで各出版社から要注意人物として扱われるようになり、いまはおそらく雑誌掲載なし、Amazonに書き下ろしをだして、そのインセンティブで生計をたててるはずです。
「なにも協力しないくせに、作品を作って書いてるのは自分なのに何偉そうなこと抜かしてるんだ、編集や原案は。」
こういう話のスジの中で、↑のセリフが担当編集からでるわけです。
よんでても、佐藤さんの言い分は筋が通ってて、あまり変なことは行ってないんですよね。
著作権が自分にあること、そのロイヤリティを担保することは、別に普通なのに、自分の権利を過当に広げたい出版社から叩かれてたりする。
出版社自体が変な慣例でなじんでるから、反対する人がおかしいみたいな空気になり、どんどん排除されていく。
佐藤さんは排除されてもなお生き残るほどの才能があったから成功してますけど、逆にいうと佐藤さんほどの作家しか生き残れないということでしょう。
で、↑の作品じたい、作家直販で出版社の利益分がないから単行本1本の値段なのに300円くらいなの。すごいよなー
よく出てくる描写に
「作品を生み出してるのは自分なのに、周りのそれに頼ってる人間のほうが偉そう」
というのがあって。
なんでこんなことが起きるのかって言うと、
周りの人は、自分で0から1を生み出せないから。
何も生み出せないけど、金や利権を手に入れたいから、群がってくる。
でも、ただ群がるだけじゃ「?」ってなるから、さもその0から1を生み出す過程で、自分は大事な役目を果たした、という顔をしてやってくる。
作家からすると当然なんなんだこいつら、となる。
たつき監督の件も似たようなところじゃないかな。
ものづくりを少しでもしたことある人はわかると思いますが、0から1を作るのってすごく大変なんですよね。
まず、相当に勉強してなくては行けない。
インプットがなくてはアウトプットできませんから、膨大なインプットが必要になる。
それがベースになって「こうあるべきだ」「これがいい」という判断をする。
ものにしてゆくというのは、
つまり「自己軸がある」行為だと思います。
これはいいはずだ、こうすべきだ、という。
その上で、じゃあ作ろうという段階でも、
「やりたいことは言うけど、どうしたら出来るか作り方を本当はわかってない」人が一定数いて、
さらに「やりたいことをイメージして作ってみるけど、イメージしたものと作られたものが違う」人がいて、
やりたいことを形にするイメージができて、イメージしたものを技術的に作れる経験と頭脳のある人だけが、ほんとうにものを作れる。
これは、売れる売れないに関わらず、漫画でも木工でもプログラミングでサービスでも、創造の根幹だと思います。
でも、1を2にする人って、その感覚自体ないんじゃないかなぁと、最近思うんですよね。
まずインプットが圧倒的に少ない。
インプットが少ないからこそ、「こうあるべにだ」が生まれないので、協調力も高くなる。
これは会社でも本当によく見ることなんだけど。
そもそも0から1の人というのは、書いた通り自己軸ありきなんですよね。
創造だから。
「こうしたい」なんです。
そこに他者はいらない。だから1人でいい。
一方1から2は、「拡大」なんですよね。
で、広げるっていうのは手数がいる。
だから協調が大事。
こうすると、創造は一人の作業に対して、そのエネルギーを中へ向かわせるのに対して、
拡大は、人とのつながりでアメーバ的にエネルギーを外に伸ばしてゆくまったく別の性質を持ってるのだと思います。
で、数の上では1から2の方が多いので、0から1を指して、「あいつは協調性がない」みたいな話になってしまう。
1から2の人は1人の負荷が重くないから、色々手を広げられるし、「こんなことをしました!」「こんなにやりました!!」みたいな声もでかい。
その人が0から1にしたうえで1から2にしたように見えることも多くて、そうこうしてると、0から1の人が排除されてたり。
シリコンバレーのいけてるサービスでは内紛がつきものだけど、そういうの見てると、ほんとこのパターンは多いなーとおもいます。
まぁでも創造する人は、追い出されても、創造する能力までは奪われないから、その後もうまいことやってたりするんだけど。
何が言いたいかと言うと、人間なんで異分子を排除しようとするけど、0から1だけでも、1から2だけでもうまくいかないわけです。
両方いるからこそ均衡が保たれる。
だから、お互いきちんとリスペクトしたほうがいいじゃないのかなと。
単純に01とか12とか関係なくさ。
「自分ができないこと(能力でも時間でも)をやってくれてる」ことに対する他者へのリスペクトって大事じゃないのかなって。
派遣さんでも、マンションの守衛さんでも、コンビニの店員さんでも、横断歩道で子供を見守るおじいちゃんでも。
みんなそうだと思うよ。
世の中がみんな同人誌頒布の世界みたいになればいいのにと思うよ。
あそこは自分ができないことに対するリスペクトで溢れてる。
なぜなら、書き手はもちろん、売り子も買い子も、全ての人が0から1をやったことがあるからだと思うんですよね。
だからこそ、自分のできないこと、うみだせないものに対するリスペクトがある。
遅いオフィスで。
どこかの担当が「まぁすんません、簡単に行けますよね?!」みたいな感じでデザインの変更依頼してて(しかも依頼が雑なせいで、やっぱり見てみたらイメージと違うからこうしたいみたいな理由)、デザイナーさんがついにブチギれてるのみながら。
そんなことを思いました。
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