人に喜んでもらうということ。
人に喜んでもらうことが、
どういうことなのか理解できた。
この人に喜んでもらいたいし、
喜んでもらえたら、それでもう十分だ。
そういう感情を理解できた。
きっと、自分が今までしていたことは、
喜んでほしい、の真似事なのだと気が付いた。
好意のある人にはこうするものだという。
そういうポーズをずっとしていた。
だからずれてたことも多かったと思う。
本人を、本人が何を欲してるかを見ていないからね。
自分が、人に喜んでほしいと思うようになって、
今まで自分が受けてきた好意が、
どういう思いでされたものかハッキリとわかった。
頂いたもの、もらった言葉。
今までもうれしくはあったけれども。
でも今、自分が感じてる「好意のある人に喜んでほしい」というこの気持ちが、
こんな気持ちが、
ものや言葉に込められていたなんて。
思ってもみなかった。
人は、自分が体験した感情しか、受け取れない。
自分はこの、「人に喜んでもらいたい」という感情を知らなかった。
言葉ではわかっていたし、わかっているとおもっていたけど
ずっとわかってなかったのだ。
何年か前、ブログを通じていろんな人に会って、色々なものをいただいて。
自分はネット上では、なぜか畏敬の念を示してくださる方が多くて。
私など、野山に住む野良猫のようなものなのに。
それに違和感があった。
でも、喜んでほしいという気持ちは、その存在自体の肯定だ。
野良猫として、そこに存在することが嬉しい。
そういうことなのかと、今は思う。
気づくのに、何年もたってしまったけど。
本当にうれしいと、今更ながらに思う。
たとえば誰か人生に、嵐が吹き荒れているとき。
本当は。
嵐をしのぐためのテントをはることも。
嵐のない場所へ君を連れていくことも。
造作もないことだ。
自分には簡単に出来ることだ。
でも、そうじゃないのだろう。
君に喜んでもらうということは。
君が嵐で耐え抜くと決めているとき、
嵐の中、君のもとへかけつけて、温かいスープや、タオルを届ける。
他人ができることなんて、所詮そんな程度だ。
でも。
それでもし、かすかにでも心が凪ぐのなら。
嵐をしのぐテントよりも、君がそれを求めているのなら。
いくらでもそうしたい。
それが、
人を思うということなのだと。
人に喜んでもらうことなのだと。
知りました。
← 広瀬、1万年ぶりにアイムシングルを思い出すの巻 税金とふるさと納税。 →