だんまり人間。
ちょっと前にしった、日常で非常に役に立っている概念がある。
それは「ハイコンテクト文化」と「ローコンテクト文化」というもの。
https://ssl.pan-nations.co.jp/column/226.html
ハイコンテクスト文化とはコンテクストの共有性が高い文化のことで、伝える努力やスキルがなくても、お互いに相手の意図を察しあうことで、なんとなく通じてしまう環境のことです。
とりわけ日本では、コンテクストが主に共有時間や共有体験に基づいて形成される傾向が強く、「同じ釜のメシを食った」仲間同士ではツーカーで気持ちが通じ合うことになります。
一方、欧米などのローコンテクスト文化ではコミュニケーションのスタイルと考え方が一変してしまいます。コンテクストに依存するのではなく、あくまで言語によりコミュニケーションを図ろうとします(見方を変えればコンテクストに頼った意思疎通が不得意とも言えます)。そのため、言語に対し高い価値と積極的な姿勢を示し、コミュニケーションに関する諸能力(論理的思考力、表現力、説明能力、ディベート力、説得力、交渉力)が重要視されることになります。
ここで一例を挙げましょう。
ある商社で「先週のインドネシアでの商談はうまくいったのかい」という問いかけがあったとします。日本型のコミュニケーションスタイルでは、
「人間万事塞翁が馬。今のインドネシア情勢の変動は激しく予断を許さないからね。今回の契約もどうなるかとヒヤヒヤしていたんだ。人間諦めないで最後まで頑張ってみるものだね・・・・」
一方、英語型のコミュニケーションスタイルでは、
“It was so successful. We got two new big contracts there.”「非常にうまくいった。大きな新規契約を2つ結んだよ」
ハイコンテクストは曖昧、話さない、論理の飛躍を良しとする、質疑応答やその回答を重視しない。
ローコンテクストは明示、活発な議論、論理的な思考展開、質疑応答はしっかり答える。
というのが一般的に言われる特徴の差だ。
ちなみに私は超絶にハイコンテクスト文化を軽視しており、多様化する社会でこんなバカげた理論を振りかざすメリットが謎だと思ってたのだが、ある人はそのメリットを「やさしさ」だと言っていた。
ハイコンテクスト文化の場合、「なにもかんがえてない人間」は生きやすいらしい。
会議で発言を求められお茶を濁せるのはハイコンテクスト文化の強みだ。
またはっきり言わないから傷つけなくて済むと言っていた。
しかし、そういうことを言う人間の方が裏でその人間をボロクソに言ってたりすることは多い。
陰口を叩かれた人、愚痴聞き役という名の悪口のはけ口にされる人、二人も生み出してなお守りたい「自分は優しい人間だ」という自意識とは一体なのだろう?と疑問でならない。
さて、話が脱線したが、ハイコンテクスト文化とローコンテクスト文化の人間が出会うとどうなるか。
ハイコンテクストは「身内の理論」なので、ハイコンテクストの人間と「身内ではない」ローコンテクストの人間が出会ったら、コミュニケーションはローコンテクストしか方法はない。
だが、ハイコンテクスト人間がそこでハイコンテクストを継続しようとした場合。
それが「だんまり」のはじまりである。
つまるところ「もっと私のことわかってよ」「もっと私に合わせてよ」である。
一方それにたいして、ローコンテクスト人間は「人間相手を100%想像するなんて不可能なんだから早くいってくれ、その口はなんだ」と思う。
これが不幸な戦争の幕開けだ。
この超絶無駄な戦争、なんとかならんのかと思って色々調べ、こんなのを見つけた。
というかだんまりにも何等か理由があるのではと思った部分もあった。
なんと、だんまりをする人は
http://lllagoon.hatenablog.com/entry/2016/02/20/151039
※出典
自分が正しくないことは自覚できても、それを認めたり相手に譲歩をお願いしたりするのは嫌なのね。
いや…もうそれは…だったら決裂は避けられないのでは…
これってようはプライドは高いができないことは認めたくないということですよね。
それを「だんまり」という技を使って、他人に処理してもらおうとしている。
さすがに難しすぎるのでは。
っていうか弊社で100000000回くらい見たからめっちゃわかる。
これね、弊社だと、30歳以上で多い。
なぜかというと若手はできないことが当たり前だからそこに心理ギャップは起きないんだけど、30頃になると「自分はできる人間だ」と思ってたはずなのに「中堅になってもそうでもない」というギャップが見えてきて、それをだんまりによって守るのだ。
しかし、問題はだんまり側と被だんまり側に解決しないとお互いが不易をこうむる問題がある場合。
もしくはだんまりが「わたしがわるいんだからいいですよ」とこっちを攻撃して来る場合。
時には問題自体の解決を放棄し、自滅してでも相手の損失を狙うことすらある。
そうされるとこっちは困るので、解決しなくてはいけない。
で、調べたところ、そのだんまりマンの脳内というのは
1. 「(自分?相手) VS 問題」ではなく「自分 VS 相手」という世界観を持っている
らしいです。
これはわかる。
なぜわかるかというと、
「一緒に現状の整理をしよう」といって問題の洗い出しをする時点でめちゃくちゃ不機嫌になりだんまりを決め込む人が、経験上かなりいるからだ。
問題の解決というのはいくつかのステップがある
①問題の洗い出し
②ゴールの設定(いいゴール、まぁOKなゴール、最悪のゴール)
③いつまでになにをすればゴールに行けそうか?(手段の策定)
④ゴールにたどり着く手段を選ぶうえでの考慮事項の出し合い(早くゴールしたいけど走りたくないです…とか、お金ないです…とか。逆に時間は有限にあるし気にしないよ~とか)
これを両者で擦り合わせることによってお互いのメリットを最大にして(お互いが納得した形で)解決できるはずなのだが、①をやろうとした時点で猛烈な反発や「勝手にやれば」というスタイルを食らう。
前述のとおり人間否定だと思っているからだろう。
実際そういうことも踏まえて、「一人がしんどいだけもよくないし、これは君、ひいてはチーム全体の最適化をはかるための整理だから」といったことも過去に何度もあった。
そして引用元でもそういう前提説明をするといいのでは、と言われているが、実際何回もやったことがある人間の経験則としては。
その意味を理解してもらえたことはない、一度もないです。
ぶっちゃけ「もうやる気がないからやりたくねぇんだ、理由なんてあるか」「言語化できないがどりあえずやりたくねぇんだ」とかでもいってもらえれば「おっ★承知です!」で終わる話なのだが…
結局のところ、だんまりマンはどう質問したらいいのだろうか?
ちょっと思うのは、最初に書いた通り、だんまりマンのやりたいことは「もっと私のことわかってよ」「もっと私に合わせてよ」なのだから、問題の解決なんか望んではいないのではないのだろうか。
むしろだんまりの本質は「相手に打開策を与えないことによって、相手に苦痛を与えること」がゴールにあるような気がする。
何故そんなことをするのか?
それは、自分はこんなに困って苦痛なんだから、お前もわかれ、という威圧ではないだろうか。
ここにハイコンテクストの「曖昧、話さない、論理の飛躍を良しとする、質疑応答やその回答を重視しない。」が悪い意味で凝縮されている気がする。
そうであるとすると、だんまりマンに「まぁ言いたくないならいいわ」と冷却期間を置こうとした時、なぜか今度はすがりついてくる(時に怒りながら)という意味不明な行動にも理由がつく。
逃げられたらダメなのだ。苦痛になってほしいからね。
こういうコミュニケーションのやり方は、おもうに少し幼稚なのではないだろうか。
そんなおり、会社の説明会で、たまに話す社員さんが隣に来た。
その人はある専門職一筋うん十年のごりごりの職人で、みんなが知ってるあれやこれも作ったすごい人なんだが、見た目がプーさんなのに中身がマッドマックスで私の心を掴んではなさない。
そして、デスクが近いため、仕事の依頼にやって来たやべぇ人間とのバトルを聞くことがあるのだが
「その反論するってことはこの問題の本質わかってますよね、よくそこに気づいててもこの会社に愛想つかして辞めませんね。すごいっすわ。」
というポイントが多く、勝手に親近感を持っている社員さんでもある。
その人と説明会が始まるまで仕事の話をしていたら、こんなことを言われた。
「もうさ、言っても無理な時は、はいっそうですか…しかないでしょwだって理解できないんだからw」
「そりゃ一度は言うよ。ここは問題ですよと、でも言ってわからないんだったら。
「そですか…はいっ…はい…」しかないよw」
人間結局、理解し合えないというのは大事かもしれない。
板垣退助も言ってたでは無いか。
話せばわかる、問答無用、と。
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