fc2ブログ

honjitu no hirose

広瀬ヒロ

虚空に向かい思考を吐露して17年。 伴侶は孤独、幼なじみは希死念慮、命を支える偉大な信仰、降谷零。 自己葛藤から抜け出せない永遠のモラトリアム中年。引き続き、七転八倒をお楽しみください。

生きることに飽きた件。



人間、折に触れ
生きがいはなんだ、自分はなんのために生きているのか、など考える。

私も若い頃はなんのために生きているのか?
など思ったりしたものの、
この歳になり
「そもそも生きてることに意味は無い」
と思うに至った。

こういうと、楽しいこともあったでしょ?となるだろう。
自分自身、ここ数年をふりかえって楽しいことも多かった。
だからこそ、この世で起きるあらゆる幸不幸は、単なる生の中で起きる一過性の揺らぎの連続でしかなく、生の意義となりえるほどのものでは無いな、と感じた。

身も蓋もない言い方をすれば、
人生のあらゆる喜びやかなしみ、たったそれごときでは、生きる価値となりえない、と言う話だ。




しかし、世間はみな生きる意味を必要としている。

子供のために生きてる。
この1杯のために生きてる。
推しのために生きている。
人は何故か自分の生に理由をつけたがる。

なぜ人は生きている意味を必要とするのだろうか?

これは、人が知性を身につけてしまった代償ではなかろうか?

下手に知性を身につけてしまったばかりに、
人類は、生きる意味という概念を作り上げてしまい、自分で作ったなんの意味もない概念である「生きる意味」を求めて人生をうろつくようになった。

その彷徨の果ての産物が、発明、素晴らしい文化、戦争、紛争、この世の全てなのだろう。
知性がなければ、人はこのような世の中を生み出さなかっただろう。
同時に、こんなにも、なんのために生きるのかと悩むこともなかったはずだ。


そう考えると、昆虫という生き物がいかに生物としてすぐれているか思い知らされる。

人間の不幸は、「生きてることに意味が無いことに気づく」ことから始まる。
しかし、虫は、知性がないため「生きていることに意味が無い」ことに気づかないのだ。

ついでに痛覚もないため、痛いからつらい、寒いからつらい、といったことも感じずにすむ。

ただ、そこに存在するだけの生命。
マインドフルネスじゃん。

さすが、この地球上で最も繁栄している種族は格が違う。


仏教では、畜生よりも人間の方が仏に近いというが、本当にそうだろうか?

生の概念も死の概念もなく、苦悩もなく、痛みもなく生きる虫のほうが、仏教的概念を体現しているように思う。


生きる意味についてもうひとつ不思議なのは、
よしんば生きてることに意味が無いとした上での
「生きてることに意味が無いから、生きてる間、楽しもう。」
という考え方について。

これはもっともな意見として受け入れられるのに、なぜか
「生きてることに意味が無いから、今すぐ死のう」
は社会的にダメなのだ。

いやほんと、なんでダメなんだよ…いいだろうよ…それくらい。と思うのだが。

「社会」というのは、ある程度の数の人間がいることを前提として、数の威力でみんなでメリットを享受しようというコミュニティだから、あまりフラフラと勝手に離脱されると、社会が維持できない。

お前が良くても社会がダメなんだよという話で、これは覚せい剤がダメなのと一緒だろう。


しかし、個人としては、考えれば考えるほど
「普通に考えて、人間、生きてる意味ないんだから、自由に死んでもいいだろ…」
と思ってしまう。
社会のスケールメリットを享受しておいて勝手な話ではあるが。



死ぬ、にも色々ある。
辛いから死にたいという人には、まだ望みがある。
辛くなくなれば死なない、ということだからだ。

私の言う死にたい、というのは、「スーパーで買い物終わったから帰りたい」に近い。
この世では、スーパーで買い物を終えたあとも、閉店まで店内をうろつき続け、もう一度レジに並んだり、店の端のベンチでだらつく人が大半であり、それが社会的にもいいこととされている。
しかし、私は買うもの買ったらとっとと帰りたいのである。

なので最近は週7日のうち5日はほぼ毎日死にたいと思っており、そのうち4日は
「自分が心から望んだことは大体叶うのに、こんなに毎日願っても死なないのは、どういうことなんだよ…いつ叶うんだよ…しっかりしてくれよマーフィーの法則~」
と、誰なのか未だによく知らないマーフィーに泣きついている。


そんなある時、念願叶って生命力がどんどん衰え死にかけて、社会人になって初めて無断欠勤(気絶して気づいたら夜だった)をしたのだが……

人間、簡単には死ねないことを知った。

たとえば、もし死に至る病になったとしよう。
しかし、死ぬまでには猶予があるため、徐々に働くに働けない状況になっていくが、生活資金は調達しなくてはいけないため、体力面、生活資金繰りで相当キツい目にあう。
病気なのに仕事をやめられない状態になり、歩くのもしんどい中、通院しながら勤める羽目になる。
(がんの人はよくこうなるらしい)

自殺するにしても、遺族の感情を考えると上手く死ぬのはなかなか難しいし、行方不明も周辺に与えるインパクト大きい。
また、自殺のことを考える度に、自殺に失敗して半身不随になった自殺経験者のいう「若くて生命力のあるうちは、人間、意外とスパッと死ねないものですよ、相当上手くやらないと」という言葉も重く響く。

そもそも、「買うもの買ったらスーパーからとっとと帰りたい」とはいうものの、スーパーの客や制止するガードマンをなぎ倒し、カーチェイスしながら振り払ってまで帰る元気はないのだ。


まとめると、死ぬこと自体は簡単だが、死ぬ前の段階で課される社会的制裁が超ハードモードなのだ。
もう何がなんでも死にたいという前向きで元気な実行力のある人間以外、そうそう耐えられるものじゃない。

社会という組合の組合員になった以上、数が減ると困る、という組合の掟は破れないように出来ている。
この組合から脱退するためには、死よりもきつい制裁を越えないといけない。
社会は、ヤクザの組合かなにかなの?



そんなわけで。
こうして私は今日も、家に帰ることを許さぬ人生という名のスーパーで、興味のないコーンフレークの棚や缶詰の棚を見て過ごしている。

時折、新商品の棚をみつけ、興味を引くこともある。
けれど、それを知ったからと言ってどうってことも無い。
それでも帰れないので、スーパーにいるしかないのだ。



以前も言った気がするが、
来世は、虫に転生することを祈るばかりである。




ーーーーーーー
追記


これを書いたあと、
「よく考えたら、人生に対する飽きって他の人も感じてないのかな…?」
と調べて、出てきた言葉がごもっとも過ぎて笑ってしまった。



自分のことしかやってなけりゃ飽きますわい



言われてみれば、人生に対する飽きは、何らか義務を背負い、自分がいなければ成立しないなにか(この回答でいう他利)を、わざわざ自分で産み出せば解消する。

たとえば、家族を設けて、家を買い、子を育てる、などもそう。

だとしたら、この世とは「首突っ込まなくていいことに首突っ込んで、マッチポンプで他利を産み続けるゲーム」なのだろうか。

茶番感がすごい。
逆に言うと、茶番でもしない限り飽きるのが人生というもの、ということなのだろう。

それに、私は他利というものを、最近、胡散臭いもののように感じている。

社会は他利を是とするため気づかれにくいが、
社会性や知識など、人より能力の低い人間の方が、助けられる機会が多くなるため、自分が助けられる機会>助ける機会となり、社会との関わりに恩恵や感謝を感じやすい。
そして他利を必要とする人間はいずれも「みんなで一緒にやろう」「仲間が大事」と言って、いつもまわりを巻き込む傾向がある。
社会性、知識の高い人間のリソースを得ながら生きる人生はそれは楽しいだろう。

一方で、社会性、知識の高い人間は、(馬鹿な振り、見て見ないふりが出来ない善良な人間ほど)どんな場所でも、能力を提供する側の立場を求められる。
能力の低い人間は、高い人間を嗅ぎ分け使い倒すのが非常にうまい。

自分自身、自分の他者より優れた部分は、人や世のために使うもの、求められたら有難く差し出すものだと思いやってきた時期もあったが、その結果といえば
せいぜい

・他者が、その救済を当たり前になってあぐらかくようになる
・都合のいい時だけ搾取し、自分の思い通りに行かない時はお前が悪いと罵倒される
・本人は騒いでるが、放っておいたらほっといたでも良かった話だった
・自分でできないことはないが、楽するために他人を便利に使ってるだけ

辺りがいい所であった。

そもそも、宗教者は「自分のために生きてたら人生飽きる、他利のために生きなさい」と言うが
宗教者自身の他人のために生きる人生(善行)の裏には必ず「その行為が、宗教的な善であるから」という条件がついてることを自覚しているのだろうか。

少なくとも彼らは「宗教的な善を体現することで宗教的に優れた存在になりたい、救済されたい」という、自らのメリットのために善行を行ってるはずで、それを他利というのは、さすがにうすら寒い。

(念の為言うが、信心による救済活動そのものは否定はしない。それで他者が救われ、人生が豊かになるのなら、大変結構だと感じる。ただ、それを自分の行いは他利、と本気で思ってるのだとしたらグロテスクすぎないか、という話。)

それとも、自らの飽きから逃げるためのマッチポンプゲームでも、他者からの搾取でも、他利という皮を被った自己救済のためのエゴ活動でもない、真の他利というものが存在するのだろうか。

そんなものあるか?





← この世に愛は存在するか? 自覚なき悪の話 →

8 Comments

藤の花 says..."共感しかありません。"
 もう買いたい物がないにもかかわらず、普通の客を装い続けないといけないスーパー。自ら退店することはもちろん、店内で寝そべってダラダラすることも許されない。また、このルールに異議を唱えると狂人扱いされる。なんと理不尽なことか。

 買いたい物はもうとっくに買った。客の振りを続けるのはもう飽きた。早く帰りたいが、帰り道は険しいように見える。ここ最近は、ひたすら楽な帰り道を探しているが、そんな道はないのだろうか。うーむ、どうしようか。。。
2022.02.13 17:24 | URL | #- [edit]
匿名 says...""
ほんとに
2021.05.25 05:44 | URL | #- [edit]
らのつぎふ says...""
共感しました。

学生です。精神障害になり、鬱病になり、私も毎日のように生きる意味を考えています。
私なりに出た考えの一つが、「生きるのに意味なんて最初からは存在しない。でも、理由を見つけることが出来れば意味もできる。」です。

「意味」というのは概念です。
「理由」というのも概念です。
人が造り上げた物には意味があり、人が生きているのには理由がある。

「意味」は価値を示し、「理由」は判断するためにある概念。

仮に、全てを知っている神様という存在がいて、その神様の視点からすれば人間生きてる意味ないです。言い方を変えれば生きてる必要性はないです。いつか死ぬんですから。

でも生きる理由はあります。それこそ、家族のためや趣味のためなどと人によって幸せを感じ、本能的に続いて欲しいと願うからです。でも終わりは必ず来ます。
生きる理由=死への暇つぶし なんです。

結局死ぬなら生きる意味ある?価値なんてあるの?

それは人それぞれです。価値観の違いで意味の有無が生まれますからね。

そもそも最初から人が存在してる時点で何かしらの意味はあるのかもしれません。でもそれを判断できるのはさっき例に挙げた神様だけ。
生きることに意味を求めてしまうのは生きるという行為の必要性を知りたいから。生きるということは人それぞれに必要性が変わっていくので自分にしか分からないのだと思いました。
生きる意味を問い、悩んで形にしたのが"理由"になるのかな...と。

趣味を見つけ、やりたいことを優先すればいいと思います。
「最悪、死ぬだけだ。」くらいに思って生活を続けてみれば理由を見つけ、意味を生み出せるのかもしれないですね。
2021.05.25 05:42 | URL | #- [edit]
さわっぺ says..."記事を拝見しました"
めっちゃ面白かったです。
ずっと生きてる意味なんてないんだろうから、さっさと死にたいと、数年前から思ってた32歳です。

ほんと、ドラえもんの道具のどくさいスイッチさえあればすぐに押したいのに、そうもいかないのがつらいとこです。

でも、死ぬのは痛いし怖いから、自殺なんてできないし、自分が死んだら一定悲しむ人もいるだろうから(親族、妻、友達)とりあえず生きてます。
※子どもはいませんし、妻と、子どもは絶対につくらないでおこうと合意してます。
一刻も早く、安楽死が理由不問で可能な世の中になって欲しいと、切に願うばかりです。

むしろ、なんで自分を産んだんだよと親に対して思います。
でも、親は自分に対してしっかりと愛情を注いでくれたのでそんなことは当然言えませんが…

とりあえずさっさと消えて、消えた瞬間に全ての人が、自分の存在を無かったことにしてもらえるよう、記憶を塗り替えてもらえたらどんだけ幸せだろうと思います。
2021.04.20 20:17 | URL | #- [edit]
通りすがりの匿名 says...""
こんにちは。

わたしも似たようなことを10年くらいボンヤリと考え続けていたので、とても共感してしまいました。
特に追記の、

”他利を必要とする人間はいずれも「みんなで一緒にやろう」「仲間が大事」と言って、いつもまわりを巻き込む傾向がある。”

という部分。
理解するメリットもない話ですから、みな理解してないフリを意識的 or 無意識的にしているのだと思っているのですが、実際に自分以外にもそう思っている人がいるとわかって不思議な安心感がわきました。
昔からなるべく自分のことは自分でやってしまおうとする性格かつ、若い頃は利他的なことこそが生きていくうえですべき行いだと信じてやまなかったのですが、だんだん利用されてるだけなのではないかという疑念が強くなっていったものですから。

ただなんというか、そういうことも含めて人間というサル山のシステムなんだろうなって最近は思ってます。

とても良い記事をありがとうございました。
2021.03.12 22:22 | URL | #- [edit]
広瀬 says..."皐月さん"
火事の件といい、コメント下さってありがとうございます。
毎度返事が遅くてすみません、でもありがたく読んでいます…

皐月さんのコメント見て、やっぱりそうですよね?!と首を縦に振りました。

以前、「幸福なバカより悩み多きアリストテレスの方が良い」という言葉を知ったのですが、きっとこのなんでも出来る、というのも同じなのかなと思います。
世間はそう言うけど…いやどう考えてもバカの方がいいでしょwっていう。笑


>私ももしかしたら気付かないところで誰かに助けてもらっているのかな、と思って生きるしかないのでしょうか。…なかなか難しそうですが。

ホントそうですよねw
当たり前ですよね、ギブアンドギブなのは明白ですし。

最近思うのは、周囲って皐月さんや私のような人間が便利だって気づいてるんですよね。
他人が、都合よく自分を使ってるシーンってよくあると思います。

しかし、なんでも出来ると言う意味で、力関係上はこちらの方が強いです。

だから、自分も周りを「体良くこき使ってサボる」ことが出来た時、はじめてギブアンドテイクが成り立つのかなって思ってます。

ただ、結局のところ、自分でやった方が「他人を体良く使う」手間より、簡単だから、あんまり起きえないんですけどね。

なので私は結果的に、この能力を「他の人は不満や愚痴を言いながらも群れてないと生きていけないが、私はなんでも出来るので一人でも気楽にやっていける」という権利なのかなと思い、1人で気楽にやってます。
小狡い人間に上手く利用されることも減りますしね。

なんの解もない話ですが…
皐月さんも健やかにお過ごしください~~!!!!


>今晩は。
>
>読んで以来、追記に激しく共感しています。
>搾取されている感しかありません。助け合いと聞くたびに、助けられたこと無いし、と心の中で悪態をついています。
>
>気付いてしまうことが人より多くて、幸か不幸かそれに対応できてしまうばっかりに、何か気付かないうちに色々やってくれる人、が出来上がってしまいました。
>
>確かに、余り不自由を感じずこなせてしまうことに関しては生まれつきなので、世の中に還元しなくてはならないとは思います。でも、やっぱり何だか、報われていない感じがしてしまいます。虚しいです。
>どうやってこの気持ちに折り合いをつけたらよいでしょうか。私ももしかしたら気付かないところで誰かに助けてもらっているのかな、と思って生きるしかないのでしょうか。…なかなか難しそうですが。
>
>でも、こう感じているのは私だけじゃなくて安心しました。話しても、理解も共感もして貰えない孤独感で一杯でしたが、追記のおかげで、一人じゃないんだ、と思えました。ありがとうございます。
>
>またブログ記事、楽しみにしています。最新のものについても、まだ整理できていませんが、色々なことを考えました。本当にいつも興味深く読ませていただいています。
>それでは、寒暖差が激しいので、お忙しい年の瀬、ご自愛ください。
2020.02.16 23:15 | URL | #- [edit]
皐月 says..."折り合いの付け方…?"
今晩は。

読んで以来、追記に激しく共感しています。
搾取されている感しかありません。助け合いと聞くたびに、助けられたこと無いし、と心の中で悪態をついています。

気付いてしまうことが人より多くて、幸か不幸かそれに対応できてしまうばっかりに、何か気付かないうちに色々やってくれる人、が出来上がってしまいました。

確かに、余り不自由を感じずこなせてしまうことに関しては生まれつきなので、世の中に還元しなくてはならないとは思います。でも、やっぱり何だか、報われていない感じがしてしまいます。虚しいです。
どうやってこの気持ちに折り合いをつけたらよいでしょうか。私ももしかしたら気付かないところで誰かに助けてもらっているのかな、と思って生きるしかないのでしょうか。…なかなか難しそうですが。

でも、こう感じているのは私だけじゃなくて安心しました。話しても、理解も共感もして貰えない孤独感で一杯でしたが、追記のおかげで、一人じゃないんだ、と思えました。ありがとうございます。

またブログ記事、楽しみにしています。最新のものについても、まだ整理できていませんが、色々なことを考えました。本当にいつも興味深く読ませていただいています。
それでは、寒暖差が激しいので、お忙しい年の瀬、ご自愛ください。
2019.12.19 22:19 | URL | #- [edit]
さとう says...""
若い頃と今、考え方が変わったように、老いてからか明日かは分かりませんが、考え方が変わるかもしれませんよ。まだ揺るぎない真理を見つけたとは言えないのでは。どうでしょう。
それに、時代が進んで、ヒロセさんが提示されている命題の真偽が証明される日が来るかもしれません。それまでスーパーに残ってみてもいいのでは。

生きる意味も、真の他利も、いまだ論理的に明文化されているものがないとしても、歌や音楽、絵画、本、映像などに、真理の欠片や始まりを見つけた方が、言語化できないそれを表現しているかもしれません。探してみるのはどうですか。
それらを読んだり聞いたりするのも、社会性や知識に限らず優れた他者からの利益だと思いますしね。




社会的制裁に耐えられそうな日が来ても、死なないで。
2019.11.25 00:15 | URL | #- [edit]

Leave a reply






管理者にだけ表示を許可する