エブリバディ コロナ YEAH...からの自己肯定の話。
というわけで自粛生活いかがお過ごしでしょうか。
私は先月から在宅勤務になっていますけど、めっちゃくちゃ最高ですね。
正直、自分のような、緊急性のない産業に従事する社会の末端なんて、元から出社する意味がなかったわけです。
こういう生活をしてしまうと、なんで今まで、わざわざ8時に起きて、化粧をし、身だしなみを整え、会社まで行かなくてはならなかったんだという気すらします。
ビフォアコロナ時代は
「むしろこうやって毎朝決まった時間に起きて出社させられる生活でなかったら私は速攻でダメになる」
と思っていましたが、定刻に仕事を始めるというサイクル自体は変わらないので、その心配は杞憂でしたね。
家の周りも交通量が減ってだいぶ静かですし、最寄り駅(山手線のマイナー駅)も、地方の中小都市の駅前くらいの閑散とした人出で、むしろ、今までが異常だったよな、と日々感じます。
意味が無い混乱を続けすぎてきた人類の愚かさに歯止めがかかって何よりです。
近況はそんなところとして。
定期ネタ、自己肯定なんですけど……。
最近、自己肯定(というか人間の認知)のことを考えていた時に、
「自己肯定界隈で最強の鉄板とされる「自分を大事にしましょう」って、やっぱり嘘じゃないか?」
と思いまして。
結構前からこの論説にモヤモヤしてたものの、うまく言語化できずにいたんですが。
そもそもの話、何で自己肯定が低くなったかって、周りから「そう言う扱いを受けた節があるから」ですよね。
自己肯定感が低い人で、「めっちゃ愛されてて、周りもみんな助けてくれるし、優しくしてくれて褒めてくれるけど、自己肯定感低いんです」なんて人いないと思います。
自己肯定感の低さは、自然発生ではなく他者との関係性の'中で獲得した価値観であることの方が多いでしょう。
じゃあそこで、「自分を愛しましょう」と実践したとします。
その結果、得る価値観は、「他人は自己を否定してくる世界だとしても、自分は自分を愛しているから大丈夫」という状態です。
今まで読んできた本はこの姿勢に則ったものが多かったんですが、この考え方って「自分は自分を認めているのに、他人が自己を否定するのはなぜか?」という、自己と他者の反応の矛盾を無視してるんですよね。
なので、どうしても自己暗示で自分を納得させてるようなフシが出てきてしまう。
最初は良くても次第に「どんなに自分を大事に思ってたって、周りからひどい扱い受けてたら大事に思えるわけないだろ」ってなります。
当たり前ですが、「他者から得られる自己肯定感」ぬきに、自愛って語れないんですよね。
しかし、「他者から得られる自己肯定感」って言うのがなかなか難しい。
以前話した真の利他は存在しないという話もそうで、
「結局のところ、他者は自分の利益のために相手を認めているだけ」であって、それに気づいてしまった人は、いつまで経っても他者から自己肯定感を得ることはできないんですよね。
カウンセリングの人は、金を払ってるから相手にしてくれるわけです。
褒めてくれる人は、自分が何かをしたから褒めてくれるわけです。
そういう中から出てきた誉め言葉を信じられる単純な人はいいでしょうが、そんな単純な人は、そもそも、自己肯定感の問題を抱えないような気もします。
自己肯定感は、他者との関係ぬきには語れないようだが、そこから得られる肯定感は単なる「労働の対価(優しくした見返り)」でしかなく、自己肯定感を高めるための「存在の肯定」とは似て非なるもの。
では、他者との関係から得られる「存在の肯定」なんてあるのか。
このことが、しばらく気になっていました。
で、「他者から得られる欺瞞的じゃない自己肯定感」は世の中にはないと思ってたんですが……
偶然見つけまして。
それがこれ。
バズった広告風シリーズです pic.twitter.com/IIksbQiynt
— Nao/吉野なお*Plus size model (@cheese_in_Nao) April 21, 2020
この人。太った人向けのファッション雑誌のモデルさんのようなのですが、デブは悪という風評と戦ってるんですよね。
で、自分や周りに向けて「デブで別にいいじゃん」をひたすら投げつけています。
別にこの人、私個人を励ましてるわけじゃないんですよ。
しかも、私はデブキャラでも、過食症でもないので、共感性ゼロです。
でも、彼女からの情報を通じて、私は確実に自己肯定感が高まります。なぜか。
『ムダ毛の剃り残しを見られてフラれた??→脱毛に行かなきゃヤバい!』
— Nao/吉野なお*Plus size model (@cheese_in_Nao) April 28, 2020
みたいな煽り広告に対する気持ちを表現しました。
あなたはどっち派? pic.twitter.com/YUSVYXY3Si
世の中って儲けのためや、自分の都合よく相手を操るために「人の自己肯定感を下げる」手法、ものすごい色んな所にあふれてて、それに気づかせるのが、この人めちゃくちゃうまいんですよね。
自分も、気づかないうちに、他者が都合よくしたいだけの価値観に染められていたんだなってしみじみと思いました。
そして、これを見た時ハッとしまして。
自愛系、自己肯定感を高める系でも「嫌な人から距離を置く」って100000万回くらい言われてますけど、そんなこと出来たらとっくに治ってるんですよね。
それが出来ないから低いんです。
なんでか。
「嫌な人が周りにいるから」自己肯定感が低いんじゃないんですよ。
「過去の経験から誰が嫌な人なのかわからないほど、対人センサーがぶっ壊れてる」
から、自己肯定感が低いじゃないかなと。
言い換えれば、「他者から得られる自己肯定を高める取り組み」っていうのは、実は「自己肯定感をどう高めるか」ではなく、「どういう風にして社会や周りの人間が自分の自己肯定感を下げようとするか手法を知る(その結果、自己肯定感が高まる)」という話なのでは、とこの人の取り組みを見ながら思いました。
自己肯定間の低い人っていうのは、「人を信じられない人」「前向きじゃない人」などではなく、単に「自己肯定感を低くさせることが身の回りやこれまでの人生に溢れすぎた結果、何が自己肯定感を下げることなのかすらわからなくなってしまった人」なのでしょう。
方位磁石の壊れたコンパスみたいな。
壊れたコンパスはしょうがないので、過去に方位磁石が壊れたけど直したことがある人を探して、そう言う人を観察することで、磁石の壊れも回復するのでは。
そんなことを思った今日この頃です。
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