100年前を生きる男性のおじさん
前回の記事を書いたあと、少し思ったことがありまして。
正直なところ、職場で見かける、家事も育児もをやりたくなくてダラダラ空残業している既婚男性や、相談所で見た同じ年数生きて同じくらい仕事してるのに、家事料理できないのに共働き希望の成人男性たちに、「おねがい」して、家事育児を教え家族の一員として教育する位なら、この二つのメスの人生の流動性のなさの解消に努めたほうが余程出生率の面では有効なのではと思います。
そして、婚外子の権利拡充を努める。
そうすれば、結婚したくない有能なメスの人生の選択肢に、出産が入ります。
出産の肉体コストは避けられませんが、育児コスト、経済コストを、(例えばそれまでの本人の納税額などに応じて)国と企業が保証すれば、話はだいぶ変わるでしょう。
父親はあくまで子の父であり、夫婦ではない(同居はしてたりしていなかったり色々)、という形はフランスなどが既に取っていますし、
この方法は、企業は有能な女性を長く使って稼げる、国は優秀な子供が増える、女性は生き方が多様化される、で三方よしです。
三方よしとはいえ、良くない人がいるんですよね。
いわずもがな男性なんですけど。
で、ある時、偉大なる薄汚れたガンジス川、Twitterの上流から面白いものが流れてきまして。
大正期の母性保護論争の頃から「労働と家事と育児の両立と個人の解放」は、女性は、やってきた話、なのだ。
— 佐川・抜け首・なん (@nankuru28) May 24, 2020
男性は?「労働と父親の両立」の話、やってる?
「個人の解放」って言う時に、女性に依存してる部分、見てる?ってなるのがある。金とセックスになるのは理解できる。育児と家庭がないからな。
確かに……。
上に書いた、空残業マンや、まともに家事できないマンも、男性の依存の最たる例ですよね。
結婚して依存できるようになって1人前!みたいな風潮も、考えてみたら不思議な話。
そしてなにより、多様性が、無い。
金orセックス。
オスに多様化がないのは、メスがオスに社会的ステータスを求めるからでは無いですよね。
たとえばメスがオスを評価する際、社会的ステータスと同レベルで、イケメンであること、感性が豊かで優しいこと、センスがよくオシャレなこと、なども評価される世界だったらどうでしょう。
オスとしては、社会的ステータスも高くイケメンで心が優しくてオシャレ、すべて100点を取るのは、難易度が上がる一方、
自分が良いと思ったメスが、自分の持ってないものに魅力を感じて別のオスに流れてしまう可能性があります。
それに対して、女性差別を行い、オスがメスを経済的に締め上げると、当然メスは「イケメンは好きだけど、イケメンじゃ腹は膨れぬ」となり、社会的ステータス>イケメンという形で、オスの魅力に優劣をつけることが出来ます。
この多様性のない画一的な評価は、「社会的ステータスで勝ち残るか否か」という二元論になるので、多くの敗者を生みます。
男性に自殺者が多いのもこのせいだろうし、そらそんなことやってたら息苦しくもなりますわな、という話なんですが、
それがオスが望んだ、オスの生存戦略の姿なんですよね。
様々な人権活動は1900年代から活発になりましたが、男性はこの100年、男性の生き方についてアップデートしてこなかったのではと想像します。
正確には、日本では70年前に一度、
「男性の人権上の重大な脆弱性が報告されました。
この脆弱性を悪用された場合、家族や国のためという大義名分により、戦や戦争などで死亡する可能性があります。
日本国憲法から配布される緊急パッチを適用してください。」
というお達しがあり、あまりに重大な脆弱性だったので、それだけは即時反映されましたが、他のものは未だに放置。
再起動かけた瞬間に、「人権アップデートが153928件あります。」と表示され、「今後、アップデートの通知をしない」を選択しそのまま使い続けたくなる気持ちも分かります。
ただ、本当にそれでいいのですかね。
以下は、男性のジェンダー論について調べていた時に見つけたのですけど。
「Q、男性の幸せはどこのあると思いますか?
「わたしの親父が死ぬ前に、奥さんがいてこんなに子どもに囲まれて幸せだ……と言って去年亡くなりました。そのときに、男性の幸せは『家族を持ち支えること』にあると感じたんです。支援センターにいる男子たちにも、自立だけでなく最後は家族を支え一緒に暮らしていけるような強い人になってほしいと思っています」
出典:ジェンダー論「男性はなぜ不幸を感じやすいのか?」
この男性の幸福の定義は比較的よくあるものだと思いますし、人に喜んでもらいたいというのも普通の感覚でしょう。
しかし、自分の人生の価値を、操縦できもしない妻子供の幸不幸で測るって言うのが、まず、おかしいんですよ。
他人であり別人格ですからね。妻子供は。
マズローの欲求五段階説でも、「承認欲求を他者で満たす、存在価値を他者に依存するのは、低レベルな承認欲求であり、危険」と言われてますし、そんな精神的依存度の高い生き方してたら、不幸になるのも当然でしょう。
しかも、この発言してる人、引きこもりの男の子などを指導してるNPOの人なんですよね。
自尊心がズタズタに傷つけられて他人どころじゃない子に、「将来的に男は大きくなり女子供に尽くすのが男の幸福(自己犠牲の美徳)」なんて価値観の人が励ましてると思うと、ゾッとします。
依存といえば、男性には嫌なことがあると威圧をかけたり無視したり、かと思えば、自尊心を満たしてもらいたがったり、立ててもらいたがったり、というのを女性に普通に求めますよね。
女性が育児に忙しくなり、それを叶えて貰えないと今度は浮気したり。
いずれも、当たり前のようになってますけど、これって他者に自分の機嫌を取ってもらおうとする、依存の習慣が染み付いてるのでは。
○○依存というより、そもそも男性の価値観や思考の根底の広い範囲に依存的思考が染み付いてるような印象を受けます。
これの一因は「ママが面倒見すぎ問題」でしょう。
たしかに男子は幼いですけど、中学になっても「出来ないから」「やらないから」と、手取り足取りやってる母親さんは少なくありません。
家庭に男性が居ないため男児の面倒を見るのが女親になり、ここで「女に依存していく」という下地が生まれるのではないでしょうか。
あくまで、私の男児を持つ母親の話を聞いた限りの想像ですけど。
というわけで、いい加減、男性の精神的な自立を目的としたジェンダー論が生まれるべき時なのかなと思った、という話でした。
そうじゃないと、今のように
「家事育児等家庭のことをメスに教わりながら、メスの真似事をし、「尻に敷かれる」などという体のいい御旗の下、高依存&思考停止して生きていく」
「それにおかしさを感じ反抗するものの、価値観が金&セックスしかないから、結局女に叩かれる」
の狭間で、ずーっと幽閉されたままなきがします。
まぁ、今もものっすごい細々と男性学なるものが存在してはいますけどね。
でもこれが流行らない理由もあって。
難しいのは、男性の近代的な生き方をクリエイティブできる頭脳的に優秀な男性は、その能力を、そんなことに使わず、今のまま、社会的ステータスを使ってオス同士で殴りあってる方が、楽なんですよね。
本人は勝者側なので。
今の構造を壊す能力の最も高い人が、最も壊す必要を感じない人、という背反二律。
だから男性のジェンダー論は流行らないのでしょう。
以上、飲み屋で世間に説教垂れる気持ち悪いおじさんの戯言でした。
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