池袋駅構内にあるコミケの話。
初めてその店を知ったのは、出張の都合で、たまたま博多駅に降りた時だった。
その日はそのまま博多駅に泊まる予定だったため、私は
「初めて博多に来たのだから、夕飯は気合を入れて豪勢に食べるぞ。」
と意気込んで博多駅にたどり着いた。
とっととホテルに荷物を置いて、もつ鍋を食べに行こう。
そう鼻息荒く、新幹線の改札を出て、だだっ広い駅の通路を重い荷物を引きずり進むと、通路の端に、2m四方程しかないこじんまりとした店が目に入った。
店の前には、10人ほどの人が並んでいるのが見える。
東京では10人ほどの列というのは特に気にもとめないが、ターミナル駅といえど、博多駅で10人ほどの人が並んでいるというのは、大行列だ。
なんの店だろうと覗くと、売っているのは普通のクロワッサンだった。
看板を見ると、いくつか味があり、プレーン、チョコ、オレンジ、さつまいも、博多らしく明太子の5種類が売られていた。
とは言っても、東京近辺で言うところのミニドンクのような、小さいクロワッサンの量り売り。
特に目新しさも感じなかった。
だがしかし。
私が看板を見ている間にも、人が吸い寄せられるように列の最後尾に連なっていく。
そして、そのお客たちは、概ね1人30秒以内で捌かれていった。
店舗の中にいる店員さんを見れば、お客が○個ください、と告げた瞬間に、店員の目の前をクロワッサンが舞い、吸い込まれるように袋のなかにはいっていくではないか。
しかもこの間1~2秒。すごい早業。
もはやクロワッサンを売る店と言うより、クロワッサンの曲芸を見せるショーのようだ。
気になる。
気になるが、ここでパンなんぞ買っている場合ではない。
博多にいる間に口にできる食事は、夕食と翌日の朝食、昼食の3回。
初めての博多上陸。
ここで、限りある胃袋にパンを入れる余裕は無い。
パンは、東京に帰ってからいくらでも食べられるだろう。
いや。
しかしいい匂いだな。あと列も伸びていくな……。
諦めがつかず、店から少し離れた、やまやの明太子のノボリの下で暫く問答していると、小人の家のような店から店員さんがいそいそと出て来るのが見えた。
なんだろう。
様子を見守ると、彼女は一息ついてから、軽く当たりを見回す。
そして駅のコンコースに響き渡るような声でこういった。
「チョコクロワッサン、残りわずかでーす!お急ぎくださーい!」
その瞬間。僅か数秒だったと思う。
並んでいた。
聞いたことも見たことも無い、そして目新しさもないクロワッサンを買うための列に。
気づいたら取り込まれていた。
私の後ろにも、磁石に吸い寄せられた砂鉄のように続々と人が集まり、列はあっという間に15人ほどになった。
平日16時の博多。
呼び声に吸い寄せられどんどん増える行列は、店員さんの恐ろしい客さばきによりあっという間に溶けて消え、すぐに自分の順番になった。
私は満を持して店員さんにこう告げる。
「全部の味、3つずつください!!!」
めちゃくちゃ笑顔だったと思う。
その後、ホテルに帰って一つだけ食べたが、その後の記憶はない。
ハッと気づいた時には、何故かパンはすべて消え、口の周りがクロワッサンのパンクズだらけになっていた。
何が起きたか分からない。
分からないが、パンは消えた。
あんなにあったはずなのに。
そんなわけは無いと、次の日の昼、博多を去る時にもう一度買った。
新幹線の中で袋を開けて口にする。
あまりの美味しさに一回目は記憶障害に陥ったが、二回目はちゃんと味がした。
めちゃくちゃ美味い。
どれだけバター使ってるのこれ。
えぐい原価の味がする…
もはやこのバターの量は、人間に与えられた公益福祉だ。
とりわけチョコが美味い。
これはもう日本一のチョコクロワッサンと言っても過言ではない。
世の中には二つのチョコクロワッサンがある。
ミニヨンのチョコクロワッサンか、それ以外のクロワッサンか。
それくらい美味い。
惜しいのは、今後、博多に行く用はないので、このクロワッサンが二度と食べられない事だった。
新幹線で、1口クロワッサンを食べる度、クロワッサンから遠のいてゆく。
次に食べられるのは何年後だろうか。
そう思いながら、私は噛み締めるように、最後のパンくずまで残さず食べた。
私がミニヨンのクロワッサンを食べたのは、2018年頃だったと思う。
あれから3年。
なんと、池袋駅の改札前にミニヨンのクロワッサン屋が出来たのだ。
今まで東京で見るミニヨンのクロワッサンは、現地(博多)のエージェントがスーツケース等に忍び込ませて東京に持ち込んだ密輸品しか存在しなかった。
それがまさか正規輸入されるとは。
この衝撃的な情報に、TwitterではTLの九州出身者を中心に大いにどよめいた事は言うまでもない。
私もオープン半月ほどした年末の年の瀬にいそいそ買いに行った。
店にいくと3~4人の客が並んでおり、博多より全然人気ないな、と安心して最後尾に並ぼうとしたその時。
見覚えのある札が視界に入った。
「列の最後尾はここではありません。最後尾→」
矢印の方向を振り返る。
そこには、駅の一角を占拠し、大手サークル「ミニヨン」の待機列が形成されていた。
50人ほどの客が整然と並ばされるさまは、さながらシャッター前サークルのアレを彷彿とさせる。
存在しないはずのコミックマーケット2020冬が、まさかの池袋駅で開催されていた。
並んでる最中、「チョコクロワッサン、残りわずかでーす!」の声がひびき、列に不安げな空気が漂ったあの瞬間を私は忘れない。
そして「チョコクロワッサン、完売でーす!」の声が響いたあの瞬間を私は忘れない。
あんなひりついた空気、コミケ以外で感じようとは。
しかも、コロナを生きのびたこのド年末に。
どんな仕打ちだ。
ちなみにその後もう1回行ったが、その時もチョコクロワッサンにありつけなかった。
ネットで相当調べたのだが、確実に欲しければ11~12時がベスト。
概ね14時には一度売り切れるっぽい。
夕方にチョコクロワッサンを買いに行く人って、逆に何目当てにミニヨン行くの?観光???という空気だった。
念の為言うが、コミケの話ではない。
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