俺が不幸だと思うものを幸せだと言うお前を許さない
というのも、最近海外ではIKIGAIというワードがホットな話題として流行らしく、 「日本人は、長時間労働で休みも少ないのに、長寿大国。その秘訣にはIKIGAIがあるからだ」 等といわれているらしい、という話を聞いたからだ。
そんなところから、その場にいた老若男女(なんなら人種も違う)でIKIGAIについては話し合ったのだが……
実は私、内心は
「めっちゃ仕事楽しいんですよね。面白い課題が勝手に降ってきて、色々考えてやったー!できたー!わーい!ってなると、お金もらえるって、最高の人生の暇つぶしじゃないっすか!!」
と思っていたものの、
その場では「いきがいはないです」というのを貫いて、その後は一切何も語らなかった。
理由は、 会話の中でかなり早いうちから
「仕事が生きがいとは思わない、寂しい考え方」
という意見が出ていたため、本心をいえる状況ではなかったからだ。
先のIKIGAIについて、日本語訳した図がある。

私の生きがいは、完全にこの生きがい図に適合していることからも、まさしく仕事が生きがいなのだろう。
でも、その場では、さも生きがいなんてないような顔でピエロを演じ、周りの生きがいを褒めそやし共感し続けた。
帰ってから、しばらくこのことについて考えていた。
別に、自分の生きがいを披露する会なのだから、正直に言ってもよかったはずなのだ。 なぜ言わなかったのだろう。
と考えると、めんどうなことになりたくないな、と思ったからだ。と気づいた。
面倒とは何なのだろうか。
おそらくその場で、自分がその場で生きがいを正直に告白したとしたらこういった反応が返ってきただろうと想像したからだ。
・仕事に生きがいをみいだしてるなんて、かわいそう。(という顔をする)
・へーそんな生きがいあるんですね
・なんでそんなに仕事楽しいんですか?
・いろんな価値観がありますね
・面白いですね、いいと思います。素敵ですね。
・え、定年したら生きがいがなくなっちゃいませんか?
特に私が発言するより先に、対立する意見を述べた人がいたことも大きく「これは恐ろしくて何か言えたもんじゃないぞ」と直感的に判断した。
私がその場で恐れたものは、自分の生きがいを否定されることではない。
他人の価値観や大事にしてるものに土足で上がり込んで、自分の物差しで測り、勝手に評価する事が当たり前になっている人間社会のグロテスクさを恐れたのだ。
これはネットやテレビのワイドショーでもよくみかける、この社会の一切を「自分のお気持ちのエンタメ」として消費するアレにも言える。
また、自分がもし、自分の生きがいについて相手に伝えるとしても、 そのやり取りは、無意識に
自分の生きがいをさも優れた商品のように説明する自分。
と
それが素晴らしいものなのかどうか、自分の価値観と照らし併せて品評する相手。
という構図になってしまうであろうことにも違和感を覚えた。
そもそも、他人のことを少し見聞きしたくらいで、理解出来る、出来ない、認める、認めない、だなんて、考えても見たらおこがましい話なのだ。
裁判官でもあるまいし。
でも、現代の人間は息を吸うようにそんなことを繰り返している。
「俺が不幸だと思うものを幸せだと言うお前を許さない。」
こんな話になるそもそもの原因は、そういう、赤の他人の価値観への干渉自体が、愚かなこと、良くないことである世間的な暗黙の合意がないから、だと感じる。
書いてみれば、明らかにおかしいことだと分かるのに。
そんなことを考えながら、ネットをフラフラしていたらこんな聖書の言葉を見つけた。
人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
2000年前から同じことやってんだな、ヒトの子は。
自分が他者を認めるとか認めないとか、なぜ、他人の価値観に意見する権利があると、勘違いして生きてるのだろう。
一億総御意見番社会じゃないか。
未だに、なんでこんな世界なのか、心底わからない。
← 社会性がない人の考察(駄文) 40越えた女が消える世界 →