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honjitu no hirose

広瀬ヒロ

虚空に向かい思考を吐露して17年。 伴侶は孤独、幼なじみは希死念慮、命を支える偉大な信仰、降谷零。 自己葛藤から抜け出せない永遠のモラトリアム中年。引き続き、七転八倒をお楽しみください。

天地がひっくり返ったこの世界

もしこの世に、完璧な人がいたとしよう。

この世の誰よりやさしくて、
この世の誰より強く、
この世の誰より賢い人がいたとしよう。

おそらく、その人は、たいそう民衆から人気者になるだろう。

一方、その人が人間の中で暮らすとしたら、何を思うのだろうと、最近考えた。
自分より優しさに欠け、弱く庇護を必要とし、愚かな人間に囲まれて、その人は何を思うか。



賢さ、というのは、視野の広さといいかえられる。
メタ認知のことだ。
ここで大事なのは、知能と賢さは全く異なる点だ。
知能は単なる処理能力だが、賢さには、自分が体験しない状況を理解できるか、といった想像力、状況理解力が含まれてくる。
高学歴でも全く賢くない人はたくさんいる。

視野の広さ、賢さの差は「片方が見えている現実を、もう片方は全く見えない」という状態を生み出す。
インターネッツの言い争いなんて、ほとんどこれだろう。

もしこの世に完璧な人がいたら、その人は、自分が見えている世界が、他人には見えていないことに気づくだろう。
そして理解して貰えないことにも気づく。
それが人生のほとんどの局面で起きる人生はどんなものだろう。

自分の中で普通だと思う優しさに対して、同等の優しさが帰ってくることはなく、
自分が庇護を必要とした時に、庇護されることはなく、
「愚かな人はこれくらいの認知だろう」と先読みして状況をお膳立てするのが普通になり、かつ相手はそれに気づかない。

普通に病むだろうな、と思う。

友達同士でよくある「知らない間に切られてた」というアレも、この賢さや視野の違いによるものだろう。
言ってしまえば、友情は、悲しいかな、同程度の視野の広さを持った人間同士でしか成り立たない。
つまり、総合的な賢さで、標準偏差からズレた人ほど、友人はいないということになる。
大変親切で温かなコミュニケーションをするが、絶対に一線を踏み込ませない人、というのが存在する。
皆さんも見たことあるだろう。
あれらの人がこの世の中で言う標準偏差からズレた人達、なのだろうと想像する。
あれが彼らなりの、愚かな人間たちの回避の仕方なのだろう。


ーーー

なんでこんなことを考えたかと言えば、最近、衝撃的な出来事を目にしたからだ。

お店でご飯を食べていたら、隣の席の女性二人組が会話をしていた。
かなりはしゃいで大きな声で話していたので、声が丸聞こえだったのだが、二人の話題は、最近起きた芸能人の話題だった。

A「うちの姉が、〇〇の大ファンなんだよね!だから最近、毎朝テレビで見れて凄い喜んでるの!!」
B「確かに!毎日出てるもんね!」

〇〇とは、皆さんご存知、ミュージカルスターとして活躍されていた一人娘が亡くなられたあの方のことだ。
毎朝テレビで見れて喜んでる、という姿は、あんな姿をメディアに見せる必要があったのか、と皆が良心を痛めたあの会見のことである。

私は、それを聞いて、驚きのあまり、青椒肉絲定食を食べる箸がしばらく止まってしまった。
この世の中に、そういう物事の捉え方があるのかという、果てしない衝撃だった。

ちなみにこの話には続きがある。
逆隣の人に電話がかかってきたのだ。
その人は、5秒ほど話をはい、はい、など言った時点で、長電話になりそうだと思ったのか、席をたち、五分ほどして戻ってきたのだが、その時Aにすごい形相で睨まれていたのだ。
マスクはずっとしていたので、睨まれる要素は声だろうと思った。
店で電話に出るんじゃねぇよ、という睨みだろう。

この話、面白いのは、AB共に、社会的地位の高い仕事についてる人だったのだ。
人間関係の細やかなすりあわせを求められるタイプの職業なので、二人ともその点をクリアしているのは間違いない。
そういう人であっても、他人のこれ以上ない訃報を娯楽として楽しめるのだ。


Aの行動には、一貫性があり、矛盾がひとつもない。

人が地獄のように悲しむ場面を見ても、自分にとって嬉しいことなら嬉しいこと。
人のささいなことでも、自分にとって嫌なことなら相手は憎まれて当然。
自分の嫌な思い(いい思い)の前では、相手の事情はどうでもいい。
けれど、周りの人との関係が良くないと自分が損するから、そこは何としてもきちんとやりきる。

そういう所ではなかろうかと想像する。

究極的に視野が狭く利己的な人間は、精神的に強く協調性が高い人である、とも言い換えられるのではなかろうか。

ただ、過去知り合った多くの人を思い出せば、この世の中は、Aさんのような、全く倫理観のないタイプのほうが圧倒的に多いとも感じる。
これはAさんのような人が劣っているのではなく、世の中の標準偏差が「そんなもの」なのだろう。


AさんにはAさんの見えている現実があり、私には私の見えている現実がある。
認知力に差があると、「片方が見えている現実を、もう片方は全く見えない」ということが起きる。
でも、私の見ている現実の方がAさんの見ている現実より俯瞰的であるので、私だけが、その人の利己心の強さ、倫理観のなさに強烈な気味の悪さを感じてしまう。


ただ、一部の人が気味が悪かろうと悪くなかろうと、世の中という視点で見たとき、Aさんの方が圧倒的に正しい健康的な人間の生きかたなのだ。
これもなかなか興味深いと思う。

倫理観がなかろうと、利己心が強かろうと、Aさんのような人間の方が精神的に健全健康で、多くの友達にもめぐまれ、楽しく生きられるはずだ。
彼彼女らは、健全に子を育み、楽しく天寿をまっとうするだろう。
人間の生存戦略的には、賢さは不要であり、むしろ賢くない方が子孫を残しやすいという調査もある。

そして、世の中的には、私のような人間は、精神的に不健康で、周りの人と仲良くできない、友達がいない可哀想な人だろう。
Aさんのような人には「ああはなりたくない」と思われているはずだ。




一体、この世の何が正しくて何が正しくないのか。
久々に、(薄々見ないようにしていた)この世界の天地がひっくり返っているという事実を直視しさせられたような、鮮烈でグロテスクな体験だった。


昔、鬱になる人や自閉症の人の方が実際は感覚としてまともであり、この世の中に順応できる人はむしろ狂った人である、という言説を見て、なるほどなと思ったことがある。
確かにそうかもしれない。



ーーー
新年早々、いつも通り地を這うような通常運転の話題でなんですけど、 あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。








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3 Comments

広瀬 says..."Re: もちさん、"
拙い話ですが、分かっていただけでありがたいです。

>類友で、どのコミュニティでもAタイプの人間は集まるし、多いように見えるから自分は社会から孤立して生きづらいと思ってしまいがちですが、案外孤立を感じて生きてる人って多いんじゃないかなと思いました。

ここ、言われてみるとたしかにそうだなと思いました。
自分だけがそうなのだと思いがちですが、孤立してる人がそれぞれたくさんいる気もしますね。
そう思うと慰められるような気もします。

>そんな人は人の痛みは分かるはずもないし、「不謹慎」とか、「相手の気持ちになって考えてから発言する」ということは一生分からないんだろうなと思います。

本当ですね。
これはよく思うのですが、物事を見る時に、
社会とか周辺2mぐらいの状況を見て物事を判断したり決める人と、自分がどう思うかだけで決める人がいて、それらはどうやってもわかりあえないのだろうと感じます。
ただ、このタイプ、発言聞いてても、自分と違う俯瞰的な考え方もあるんだって気づかなかったり、自分が正しくて相手が変わってるという反応することが多いのが凄いなぁと思ったり。
日々驚かされます。

>色々な経験を元に考えが成熟していった結果が標準偏差値からズレていった。究極は「人に全く興味がない」もしくは「なくなった」のかなぁ、と思いました。

結局、人間はこうなっていくのが普通なのかもしれませんね…
考えさせられます。

コメントありがとうございました。

2022.03.07 22:17 | URL | #- [edit]
もち says...""
いつも分かりみが深い記事をありがとうございます。赤べこ並に首を縦に振りながら読ませていただきました。

Aのような物事の捉え方をする人には、普段の社会人生活においても、自分に都合のいいものの見方しかしないし、自分に利益のあることしか選択しないんですよね。
そんな人は人の痛みは分かるはずもないし、「不謹慎」とか、「相手の気持ちになって考えてから発言する」ということは一生分からないんだろうなと思います。
もちろんそれを諭しても「はぁ?」で、理解されないんだろうなと。
ちなみに、私の周りのAタイプの人間は、会社のゴシップネタが好きで、人の不幸話を嬉々として人に吹聴しまくってます。絶対に周りにいてほしくないタイプの人間ですね。

類友で、どのコミュニティでもAタイプの人間は集まるし、多いように見えるから自分は社会から孤立して生きづらいと思ってしまいがちですが、案外孤立を感じて生きてる人って多いんじゃないかなと思いました。
Aタイプは色んな意味で声はでかいし神経も図太い(もしくは通ってない)から目立ちますが、そうじゃない人はただ単に目立たないところにいて、発信もしないけど、でもきちんと投票は行ってる...みたいな。
色々な経験を元に考えが成熟していった結果が標準偏差値からズレていった。究極は「人に全く興味がない」もしくは「なくなった」のかなぁ、と思いました。
自分は全く人に興味がないし、それはそれでラクなこともありますが、そもそもそんなことも考えずに、自然体で生きている人が羨ましいなぁと思います。
2022.03.06 21:34 | URL | #- [edit]
あるおひ様 says..."敵意を向ける才能"
いつも興味深い記事をありがとうございます。

Aさんのように敵意を向けることにためらいがない人をある意味羨ましく思ってしまいます。
私は人を咎めるということは、自分もそのルールで縛ることと感じます。
例えば他人の遅刻を咎めるということは、自分も遅刻はできなくなります。
なので、今まで自分が遅刻をしたり、これからもする可能性がある場合は私は人を注意し辛くなります。
注意した瞬間自分も縛られ、自由を失った気がするからです。
しかし私とは違い、他人に敵意を向けたり、咎めることを躊躇なく出来る人が世の中には結構いる気がします。
しかもよく見るとその人もその咎に当てはまる行動をしているということが多いです。
なので私もAさんの様な人は怖いしなるべく距離を置く対象なのですが、不謹慎なことをためらいなく言えるという点ではある意味まだ「見えてる」敵意なので生易しい方と思います。
私は「隠された」敵意の方が世の中に多く、怖く思います。
今回の事件で「お気持ち」を聞いた記者を強い言葉で批判した芸能人が何人かいましたが、その芸能人も今まで不謹慎な事をしたり言った事があると思います。
社会的にも感情的にも記者を咎めるのは正しいことになると思いますが、それを強く咎められるほど出来た人間などほとんどいないと思います。
まして、記者として聞いたなら上司の指示かもしれないし、会社として聞いているわけだから個人が責められるのは私としては違和感を感じます。
こういう炎上の裏には、世の中の人は敵意を向ける矛先を探しているのではと思います。
他人のを責めるのが楽しい、自分に自信がないから世の中の正義と同調したい、縛りが多くストレスフルな毎日のはけ口がほしい等様々な裏の理由があると思いますが、社会的な正義の仮面をかぶり、他人を責める機会を探している人間がとても多くいるのではと思います。

生活保護に関する芸能人の事件もバッシングを受けていましたが、世の中貰えるものは貰っておこうと考えている人間の方が多いと思います。
不倫した芸能人も最近は再起が難しいほど干されますが、一般人で不倫している人はたくさんいると思います(普通に生きてても何人かそういう人を見ました)。
世の中自分のことを棚に上げて他人を批判できる人がほとんどなんだなと思ってしまいます。
お互い多少縛り合わなければ世の中何でもありのメチャクチャな世界になってしまうから咎めも必要なのかもしれませんが。
自分も含め人間とはそういうもの、と思うことが今は一番の解決策ですが、そんな敵意とは無縁の生き方があればよいのですが。。

いつも主観的な長文で汚してしまい申し訳ありません。
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
2022.01.01 13:51 | URL | #O1yV/yZg [edit]

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