嫉みの本質。
というのも、私は人に比べて、人を嫉むという感情が元から薄い。
それを人から指摘されたこともあるが、逆に世の中の人がなぜ他人を嫉むのかよくわからず生きてきた。
嫉む人間ものというのは興味深い。
例えば、以下の三人の人間がいたとして、みなさんは、誰がいちばん妬まれ、他者から強く攻撃されると思うだろうか。
A.能力があることは顔に出さず、周りに対して公平、丁寧に接する。
B.私は能力がありますよ、という顔をして有能さや自信を隠さない。
C 私は能力がありますよ、という顔をして、女ボスのようにふてぶてしい態度をする。
答えは、上から順に強く嫉まれるのである。
特にCはほぼ妬まれなくて済むので、非常に便利であり、有能な人間が人格者を装わないのも、これが理由だと推察している。
この不思議な矛盾は、自分より有能だと思う人間が、自分より低能な振りをしていると、
「こいつは自分より上である」という妬みに加え
「こいつが自分より上であるはずなのに、下のような態度をとる」という苛立ちも与えるため、より攻撃が強くなってしまうためだろうと想像する。
嫉む人間の「相手は自分より上位の存在であり許せない」という考えを相手が「謙遜」によって否定してくるという点が、怒りを買うのだろう。(めちゃくちゃである。)
そのため、嫉妬するものが抱く「相手は自分より有能であり、嫉むに値するふてぶてしい態度だから、嫉妬するのも無理はない。でも怖いから何もいえない。」という状況を演出する方が、嫉妬する者に内面的な矛盾が起きず、攻撃を受けにくい。
つまり、嫉む人間は、相手が自分より上位であることを妬みながら、同時に相手が自分より上位であることを相手に自覚、肯定して嫉みの正当性を与えて欲しい、という非常に依存的でアンビバレントな感情を持っているのだと想像する。
ちなみに、私の周りでよくみる、嫉む人間の典型をあげるなら
生まれ育ちが裕福ではなく、結婚を自慢の手段として使う女性
(このタイプは結婚したあとの過度な主張により嫉まれていたことを知る、生まれ育ちが裕福だと私ごとき嫉妬する価値もないので逆に円満な関係を築ける)
地元ではそこそこの学校を出て地方から上京してきた、都会でキラキラバリバリ働きたいという野心の強い女性
(東京にキラキラした夢を抱きすぎて期待過多なうえ、ちやほやされたい欲求が強く、大したことなさそうなのに自分より重宝されてる人間が気に食わない)
のふたつは十中八九関わるとろくなことにならないので、近寄らないようにしている。
両者の面白いところは、
「自らの幸福(結婚生活)を追求する」
「自分がキラキラすることを追求する」
という本質的な自己の目的に注力しない点である。
というか、それこそが嫉みの本質であるのだが。
人は、何か目的を達成しようとした時、いくつかの行動に別れる。
1.何としても自分の力で達成しようとする。達成まで諦めない。
2.何としても自分の力で達成しようとする。達成出来なかったらそこで諦める。
3.他人を使って達成しようとする。達成まで諦めない。
4.他人を使って達成しようとする。達成出来なかったらそこで諦める。
この中で、最も嫉みが強いのが3なのだ。
元々、嫉む人間は、自分の力で物事を打開しない。
おもしろいことに、自分が頑張らないぶん、欲望に再現がないのである。
嫉みの典型、金銭面について例を挙げると、裕福な生活をしたい、と思った時、
1は勉強するなり転職するなり、「お金が得られる行動を自らとる」という目的の本質にあった行動をとることで、目的を達成しようとする。
なぜなら、自分の目的のためには、自分がやった方が1番手っ取り早いからだ。
反面、目的が達せられない場合もある。その時は、どうしたら良いか考え、試行錯誤するため、時間や努力のコストは甚大だ。
一方3は、高収入な夫と結婚する等「誰かにその目的を達成させることで間接的に自分も達成したことにする」パターンなのだろうと思う。
目的達成のためには、夫に勉強するなり、転職するなりを迫り、できない時には文句を言う。
この時、本人は、少なくとも自分で目標を達成してないので、時間や努力のコストは、本人が努力するよりも軽くて済む。
ただ、傍から見ていて、このタイプは常に強烈なフラストレーションを抱えている。
言わずもがな、他人は操縦出来ないからだ。
夫と結婚できたと自慢して回った数年後には、旦那の何がどうだとと文句を言い、夫が自らを操縦しようとする妻に嫌気がさしてくれば、今度は子供を自分の夢を叶えるツールとして依存する。
SNSで有能でキラキラしたビジネスパーソンを装い、自己研鑽に励まず他者を攻撃し、それでも歯が立たないとなると、それがはっきりする前に「もっと私は仕事でやれたはずだけど、子供が出来たから家庭を大事にする」「こんな所よりもっといい会社に勤めたいから転職する」という酸っぱいブドウ理論で、自分の不出来から目をそらす。
(なぜ急にリアルな具体例をあげたかと言うと、攻撃された後の数年後の顛末がみな判子を押したように同じなことが常々不思議だと思っていたためである。)
このふたつ内容は違えど「自分の成功のために相手を操縦する、相手のせいにする」という意味では、夫を叱咤激励するのも、同僚を攻撃するのも、やっていることは違わない。
さらに言えば、自ら動かないため、いい歳しても、自分が出来ること、出来ないことの範囲が分からないまで、つまるところ、自分の程度をいつまで経っても学習することが出来ないようにみ見受ける。
鶏の卵を割ったことがない人間は、大きなダチョウの卵を見て「これは自分に割れるかどうか、どう割ったら良さそうか、もっと言えばダチョウの卵を割る必要があるか」一切合切、想像が出来ない。
嫉妬する人に、自己研鑽を説いても理解できないのは、そのためである。
こうして考えると、嫉みというのは、基本的に正面から目的、つまり自己に向き合わないゆえに起きている感情なのだろう。
目的が達成できないのは、自分に能力がなく至らないせいである、そしてそれはある意味で自分のせいではない(生まれ育ち能力は選べない)と認めれば、納得もできる。
自分の身の丈にあった進むべき道も見えるだろう。
しかし、他人を使って自分の目的を達成したいという依存心の強さゆえ、それを受け入れない。
端的に言えば、幼いのである。
南無三。
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