認知の歪みによって得られる幸福。
せいぜい
「まぁあの人はね…いい所もあるんだけどね」
くらいの発言に留め、人をはっきり悪く言わない社風がある。
そのなかで、
平社員、管理職、あらゆる人間からはっきり
「あの人、頭悪いよね」
と言われている人材がいる。
そもそも管理職は職務上、部下にほかの社員の悪口を言ってはいけないのだが、複数の上役が、さまざまな部下にそうこぼしているようなので、相当珍しいケースだ。
どう言った風に頭が悪いかというと、単純に仕事が出来ない。
仕事も遅く、ミスも多いが、注意されても、注意されていると認識してないので、学習せず、何回でも同じことをする。
逆にすごいなとさえ思うが、仕事ができない人材あるあるの「プライド高い」が標準装備されているため、周りを見たり、聞くことをしないので、成長しないのだろう。
また、上司に偉そうな態度をとったり、周りの人がいる前で同僚を叱責したりと、なかなかクレイジーな実績も持っている。
その都度、注意を受けてるらしいが、ガツンと怒られると数ヶ月くらいは大人しくなるものの、しばらくすると元に戻る。
成長しないというアビリティはなかなかに強い。
で、その人材の何が凄いのかと言うと、
自分のことを優秀なビジネスパーソンだと思ってるようなのだ。
むしろ、皆のレベルの低いからフォローが大変、忙しいと思ってるらしい。
ちなみに私はその人の仕事の尻拭い(仕事のやり直し)を、影で何回か回されており、私の方がよほど「レベルの低い社員のフォローが大変」なはずなのだが……徹頭徹尾、その人がどういう思考回路で生きてるのか本当に謎である。
ただ、考えてみると不思議なのだ。
普通、自己像は、周りからの反応によって決まる。
頑張ってやった仕事を褒められれば、自分は他人の期待に答えられる人材であり、仕事の方向も悪くないのだと思うし、
毎回色んな人から微妙な顔をされたり、作った書類を大幅に修正されていたら、その修正の分だけ、自分の仕事がいかにやばいか気づくだろう。
ご覧の通り、その人は、周りから、評価されていない。
自分を優秀だと思い続けられる根拠はそう多くないのだが、それでも優秀だと思い続けられる根拠は何なのだろう。
観察していると、その人も、自分は優秀だと思っているのに、周りの反応がそれとマッチしない気味の悪さを、なんとなく肌感で感じ取ってるのではなかろうか?と言う気もする。
何故かと言うと、ことある事に、周りを攻撃したり、自分はこんなに大変だとアピールしているから。
何らかの違和感は感じてるのだろう。
でも「自分が優秀である」という前提に疑いを持てないせいで、その気味の悪さの正体にきづけない。
その結果、抱えたストレスを「優秀な自分に対して、尊敬せず、気味の悪い態度をとる最悪な周囲」を叱責することで解消する。
いわずもがな、優秀だと思い続けられる根拠があるから、優秀だと思いこんでいる、と言うより、本当は深層心理では自分が矮小な人間だとわかっているが、理解したら「優秀なビジネスパーソンである自分」という自己が崩壊するから認められないのだろう。
実際には、その幻想の自己が崩壊したときに、初めて、その人にとっての素晴らしい価値観やその人しか歩めない人生は生まれるのに、彼彼女らは、それを認めない。
ちなみにその人材。
高学歴で既婚。
すでに子供も何人かいるらしい。
そんなに頭悪いのに、よく自分と同じ遺伝子を残そうと思えたな…と感心したのだが、その人の自己像は
「一流大学を卒業し、会社では優秀な人材として無能な社員たちに悩まされつつもバリバリ仕事をし、結婚して子供もいる完璧な人生」
なのだろうから、今の人生は至って普通のことなのだろう。
もしその人の認知が歪んでいなかったら(つまり周囲がどう思ってるかを知ったら)、自分の能力の低さに打ちひしがれ、あまり幸福な人生は歩めないだろう。
自分を知らないこと、認知が歪んでいることによって得られる幸福。
その人の存在からは、そういう幸福の形が透けて見える。
羨ましくもあり、感心する。
けれど、その人をみいると、自分も、もしかしたら、似たような認知の歪みの上に脆く建つ幸福に浸っているいるのかもしれない、と一抹の薄気味悪さに身震いがする。
一体、幸福とは何なのだろう。
色々と考えさせられる出来事である。
そういえば、世界一幸福な国といわれたブータンは、今、全く幸福では無いらしい。
その理由は、近年、ブータン国内でインターネットやメディアが発達したことで、国民が世界と自国を比較する手段を得てしまい、ブータンがいかに貧しいか知ってしまったから、なのだそう。
つまり、世界の事を全く知らなかったから、幸福だったのだ。
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