それでも自殺は悪なのか。
例えば、ある日、あなたが生まれ変わったとする。
生まれ変わった先は、ゴミ虫の世界だ。
ただし、あなたはゴミ虫ではない。
人間である。
でもこの世界には、自分とゴミ虫しかいない。
当然あなたは、ゴミ虫達とともに生きることになる。
ゴミ虫は無教養である。
良心もなければ、倫理も哲学もない。
教養とは、養老孟司の言葉を借りれば、人の心がわかることであるので、無教養は人の心が分からないこと、である。
けれど、あなたは、人間なので、教養がある。良心も、倫理も哲学もある。
ゴミ虫より賢く、優しく、温かく、気が利く。
ゴミ虫よりも遥かにたくさんのことが出来る。
だから、あなたはゴミ虫達にとっては、憧れの存在だ。
ゴミ虫たちにたくさんの笑いと温かさを与え、
そして、弱く困っているゴミ虫達を無償の愛で助ける。
ゴミ虫達は、あなたに感謝した。
ただ、問題は、ゴミ虫が無教養であることだ。
ゴミ虫が困っていることをあなたは機敏に察することが出来るが、ゴミ虫があなたの困窮に気づくことは無い。
心優しきあなたが困ったゴミ虫を助け、ゴミ虫のコミュニティに貢献したとしても、ゴミ虫には次の日にはそれを忘れ、知能の低さ故に、自分だけの幸福を追求する。
互助というものは存在しない。
なぜなら、ゴミ虫にはあなたほどの能力はないせいで、助けを求めたところで、力にならないことをしっているからだ。
むしろ、ゴミ虫がかかわることで、1の問題が2、3に膨らむ事さえあるだろう。
「互助」はお互いの総合的な能力が拮抗している時にしか成立しない。
あなたはそれを「助けて欲しい」と言葉にする前から知っている。
教養のないゴミ虫は何も言わぬあなたを見て、時に「助けてって言えない人なんだね、プライドが高いのかな。」と見当違いなことを考える。
ゴミ虫達は、何度もあなたの元に助けを乞うためにやってきて、あなたの真心に感謝し、あなたに助けて貰ったことを忘れ、時にはあなたを粗末に扱う。
あなたは、心を暗くするが、全てのゴミ虫は無教養だから、あなたの苦しみに気づかないし、相談しても理解できない。
このゴミ虫の世界に疲れたあなたは、数少ない心許せるゴミ虫に、この悩みを打ち明ける。
ゴミ虫は、こう寄り添う。
「え、ゴミ虫の世界では、普通だよ。あなたは繊細すぎるんだよ。」
こんなバカしかいない世界で生きるには、どうしたらいいのだろうか。
一つの方法は、ゴミ虫の言うように繊細さを捨てる、という方法がある。
つまり
「下等なゴミ虫の世界に相応しい人間になれ」
という事である。
そして、驚くべきことに、このアイデアは、このゴミ虫たちの世界では、最も良い「生き方」としてとかれているのだ。
しかし、残念なことにあなたには教養と知能がある。
そこには強い葛藤が生まれるはずで、到底ゴミ虫にはなり下がれないだろう。
その時、あなたはどう生きるか。
善良なあなたは、ひたむきによく生きようとする。
けれどそれも、長くは続かない。
良心のない虫に囲まれつづけても正気を保ち続けるには、信念と、気力と体力が必要だからだ。
歳をとり、体力的にも衰え、若い頃のように生きることが出来なくなる時、人間は、自分の歩んできた道を振り返り、この世界でこれからも生きることの虚しさを改めて感じる。
なんのために生きるのか。
そう問うあなたに、周りの虫はこう説く。
「長く生きよ、それだけでよい」
恥を晒してでも生きよ、我らはこうしてドブ水を啜り生きているではないか、というゴミ虫の優しいアドバイスは立派であるが、残念ながら、人間は虫ではない。
満足な豚が、悩み多きソクラテスの悩みを理解することが出来ないように、ドブ水を啜ることの人間の苦悩は、虫の世界では理解されない。
そうして人間は、自らの命を絶つ決断をする。
教養がある以上、人はゴミ虫として生きては行けない。
けれど、もうゴミ虫の世界で生きる体力も気力もない。
それに、最後まで、自分の出来ることを精一杯、全力でやってきた。
ゴミ虫立ちに囲まれ、報われなくとも、虫を恨まず、楽しくやってきた。
精一杯やったからこそ、もう悔いることなどひとつもない。
命をたったあなたの亡骸を見て、ゴミ虫達は悲嘆にくれる。
「とてもいい人だったのに」
「あなたに救われたのに」
「ご冥福をお祈りします」
「まだ死ぬには早いでしょう」
ゴミ虫のその言葉の中にあるのは、人間を失った「自分の痛み」それだけである。
結局すべて、自分のことだけだ。
仕方ない。虫なのだから。
時々、これを悔いて、教養に芽生え人間となる虫もいるが、そう多くはないように思う。
人間のことなど、これぽっちもわからないからこそ、こんなことになったのだ。
人間のことなど、これぽっちもわからないからこそ、簡単にそんな言葉がはけるのだ。
それが虫なりの健全性なのである。
人間も虫も、誰も悪くない。
このように、有能であり善良である人が、社会で深く苦悩し、無教養な社会に潰されていく姿を時々目にする。
存命の場合もあるし、既にことを決断し故人このともあるが、いずれにせよ、そのような人をみかける度に、
果たしてこれは本人が責められるべきことなのか、疑問に思う。
人間は「残酷であること」を武器にこの地球を支配してきた。
人間が世界に散ったことでどれだけの種族が滅びたことだろう。
それは動物に限ったことではなく、ネアンデルタール人もそうだし、世界の様々な原住民でさえその犠牲になってきた。
そう考えると、ゴミ虫の世界に人間が生まれてしまうことは避けられなくても、その世界に生まれたゆえの無惨な終わり方を避ける方法、最低限その尊厳を維持したまま人生を終える、世に認められた手段が、あれば良いのにと思う。
残酷なゴミ虫に囲まれひたむきに生きた結果が、ゴミ虫に「ああ言う終わり方は嫌だ、良くない」と哀れまれる結果というのは、さすがに惨い。
これに限ったことではない。
病気などで、自我を失う人、極限の苦痛を感じている人もそうだ。
今の日本では、それらの人が人としての尊厳を守りながら人生を終えるための手段が、ないのだ。
人生という広大なテーマパークの1日無料券を手にした我々人間は、めいいっぱいテーマパークを楽しんで、これ以上ないほど満足したとしても、閉園時間まではテーマパークから出ることを許されない。
ものには、何事も、その人なりのキリのいい時というのがある。
自分で死を選ぶ事を許さないこの世界は、基本的人権を侵害しているように感じる。
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