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honjitu no hirose

広瀬ヒロ

虚空に向かい思考を吐露して17年。 伴侶は孤独、幼なじみは希死念慮、命を支える偉大な信仰、降谷零。 自己葛藤から抜け出せない永遠のモラトリアム中年。引き続き、七転八倒をお楽しみください。

自分を攻撃してはならない。

ここ数年、恐ろしいほど易怒性が高まり続け、一時期は、ブチ切れに効く漢方薬なしには、仕事ができないほどにまでなっていた。
最近、アンガーマネジメントやらメンタルトレーニングやらが全盛だが、私もそのブームに乗っているのだろうか。


怒ったところで、何か解決する訳では無い。
気分も最悪になるし、むしろいいことなど何一つない。
そんなことは百億万も承知だが、それでも怒り狂ってる人は、私以外にも世の中にごまんといる。

しかも、自分に至っては、若い頃、怒り狂う人を見るたび「仕事ごときで、感情的になる人なんて、この世で最も馬鹿な生き物だ」と思って生きてきた。 全く理解できなかったのだ。

それにもかかわらず、このざまである。

怒りは他者への攻撃であり、落ち込みは自分への攻撃であって、本質的には同じ「悲しみ」らしい。
昔ほど落ち込まなくなった代わりに、怒りが増幅している、という理屈のような気もするが、落ち込みより怒りの方が「社会的に不利になる度合い」が半端なく高いという意味で、私の中で、この怒り問題は、ここしばらく喫緊の課題となっている。




怒りについて考える中で、ふと
「人は、自分に向けている言葉と同じ言葉しか、他人に向けることは出来ない。」
という言葉を思い出した。
どこで見たのかは覚えてないが、死ね、と他人に言ってる人は、実は本人が自分に対して死ね、と思ってるから言葉としてでてくる、と言う文脈で使われていたような気がする。
つまり、日頃他人に怒り狂い、罵倒する人は、日頃から、その人自身がその言葉を、自分に投げかけている、ということである。

私自身、人を叱責するよりも遥かに高い頻度で、自分を罵倒しながら生きているので、心当たりは存分にある。
しかし、考えても見たら、なぜ、人は、物事が上手く運ばない時だったり、失敗した時、自分や他人を強烈に叱責するのだろうか。
自分を罵倒して責めると、物事が良くなるのだろうか?
そんな話、聞いたことも無い。
冷静に考えれば、叱責と改善にはなんの関係も無いはずだ。
叱責のプレッシャーで混乱させ、自分に服従させるということなら分からなくもないが、そんな下らないことをやるのは、今日日、洗脳セミナーくらいである。

何かを改善させるために叱責なんてしない方がいいなんて、言われなくてもわかることだ。
他人に対して失敗したことを罵倒したら、萎縮して上手くいかないことの方が多いし、よしんば、恐怖支配で言うことを聞かせられたとしても、長い目で見て、遺恨に繋がるだろう。

なのに、なぜそんなことを人はしてしまうのだろう。
一体どこでどうやって、その習慣を身につけたのだろうか。


これは想像だが「その人が、そういう教育を受けたから」ではなかろうか。


子供の頃、親の思いどおりに動かない時、罵倒され、病的な怒りをぶつけられ続けた子供は、
「他人が思い通りに動かない時に、上手く動くようにするには、罵倒して、病的な怒りをぶつける」
ということを学んでいる。

自分がそれに脅えて言うことを聞いた恐怖は、未だしっかりとその人の心の内に植わっているから、潜在的にそれが「教育であり、人に言うことをきかせる効果的な手段」だと勘違いして覚えているのではなかろうか。

そして、いつもはそんなことをしたらまずいと頭ではわかっていても、その人が追い詰められた時、それが咄嗟の手段として顔を出す。
そうやって、自分や他人を、子供の頃と同じように罵倒し続ける。


もしこの推測が正しいなら、怒りを抑えられない人というのは、とてつもなく哀れで悲惨である。
大変な中、幼少期を生きてきて、中年になってまでその影を引きずっているのだろう。
加えて言えば、そういう人は自分で自分を攻撃することが習慣化しているせいで、絶対受けては行けないサイコパス系の人間からの攻撃を易々と受け入れがちである。
しかし、周りを見渡しても、そういう大人が少なくないだろうことは想像に容易く、この世の病理を感じずにはいられない。







人は、自分に向けている言葉と同じ言葉しか、他人に向けることは出来ない。
つまり、他人を咄嗟に罵倒したくなかったら、自分を罵倒してはいけないのだ。
何かを失敗した時、自分を攻撃してはいけないのである。
正確には「もう自分を攻撃しなくていい」である。
自己の攻撃、否定は、教育でもなんでもないし、何の役にも立たないのだから。

これが、簡単に出来れば苦労しないのだが……。


しかし、なんとかかんとか、自分を叱責しない習慣が身についてくると、ひとつ気づくことがある。
それは、自分が何か失敗した時に自分を叱責したり、罵倒するというのは、反省の手段として「意外に楽」ということである。
内なる自分に罵倒され反省し、心を痛めたり、俯いて恐怖にじっと耐えていれば、ひとまずその場はそれで許されるからだ。
(文字に起こすと無意味さが凄いが、幼少期に植え付けられた習慣の威力は意外と強く、癖のようにやってしまう部分が大きい)


自分を叱責せずに物事を失敗しないようにするには、うまくいくまで、次はどうするか、あの手この手で策を尽くし続けなくてはならない。
自分や他人に叱責されて心が死ぬことよりかは良いだろうが、上手くできる方法を頭をひねって考えたり、上手く出来たら何かご褒美を貰えるシステムにしたり、色々考え続けるのは、なかなかに大変だ。
そもそも生まれてこの方、「恐怖支配無しの平和的な成長」というものを知らないから、その試行錯誤も、象を見た事がない人に象を絵を描かせるくらい、あやふやなものである。

ただ、そうやって試行錯誤を重ねると、
「最終的に出来るかどうか」は、能力やタイミングもある一方で「出来るように一生懸命に取り組む」ことは自分の力でできる、価値ある行為であるとわかってくる。
それこそが、人間の成長の本質であると、少しずつ体験的に理解できるようになってくる。

それは、本当に微かな手応えではあるが、今まで全く知らなかった人生の手触りを、私に教えてくれてもいる。









この本の「相手」を全部「自分」に置き換えて読んでいるが、とても興味深い。





自分の気持ちを理解する

自分を理解し許すためには、自制心を発揮する必要がある。人格がしっかりしていないと、それはできることではない。
自分を批判するのではなく、自分を理解することを心がけよう。






これができている人が世の中にどれだけいるだろうか。

自分の気持ちを理解出来ない、自分を許せないから、
人の気持ちを理解できないし、許せなくて、怒りが湧くのだろう。
結局、他人を動かす云々以前に、自分の気持ちさえ理解出来てないのだ。


人は、自分の感情を通してしか、世界を認知出来ない。
自分の感情を理解して許せなければ、人は、世界をきちんと見ることさえままならないのだ。

なんと愚かでか弱く、愛おしい生き物だろうか。




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1 Comments

いつも says..."ありがとうございます。"
たまに浮かんでも直ぐに忘れてしまうことなので、ここをしょっちゅう覗くようにします。
なんとなく考えてることだけど文章に纏めるって全然違うのですよね。
明文化してくださってありがとうございます。
他もとても面白く読ませていただいておりますので、ぜひ今日もヒロセさんのことをお聞かせくださいね。
2022.07.05 06:23 | URL | #- [edit]

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