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honjitu no hirose

広瀬ヒロ

虚空に向かい思考を吐露して17年。 伴侶は孤独、幼なじみは希死念慮、命を支える偉大な信仰、降谷零。 自己葛藤から抜け出せない永遠のモラトリアム中年。引き続き、七転八倒をお楽しみください。

生きることへの抵抗力


時々、メディアなどで、貧困に喘いでいても福祉に助けを求めない人を見掛ける。

だいたいそういう人はその時点で孤立していて、社会的肉体的に福祉の介入無しにはどうしようもない状態なのに、なぜか生活保護の申請支援などを行う団体の「福祉の助けをかりましょう、私たちが支援します」という口添えを拒むのである。

困窮者にとって、べルトコンベアーのように乗っかれば自分を助けてくれる支援団体の手は、千載一遇のチャンスのはず。
なのに、それを断わるとはどういうことなのだろう。

私はそういう人を、認知や知能に問題があるから手助けに反応しないのだろうと思っていた。
実際、社会困窮者は、認知や知能に問題がある人の割合が一般のそれに比べ遥かに高いから、間違ってはいない。

でも、それだけではないかもしれないと、最近、自分の身を通してひしひしとかんじる。


どんな生き物にも、抵抗力というものが存在する。
生き物は、病気になっても回復するし、心に大きな傷を負ってもそれが一過性のものであれば、時間はかかれど回復していく。

しかし、それが何度も何度も続くと、次第にその抵抗力は失われる。

例えば虐待を受けたり虐められている子は、最初はその困難に立ち向かおうとし、周りに助けを求めなんとか解決しようとするが、周りの無理解や長期の攻撃に疲れ果てると、次第に暴力に抵抗せずされるがままとなっていく。

植物も、何度も強剪定(丸坊主になるくらいの刈込み)をすると、次第に春になっても葉が芽吹かなくなる。

命に関わらないものでいうと、超高学歴ニートがそれに当たるだろう。
親の期待に応えようと幼い頃から進学塾に通い、苛烈な受験を勝ち抜いた有名進学校出身者の中には、時々、受験期にその人が人生で使える「努力」をすべて使い果たしてしまい、無職になったり、なんとか就職しても無気力な人生を送る人がいる。

人は、長期的、反復性のある困難に直面すると、しだいに抵抗力が失われ、同時に無力感から意思、生命力も枯渇する。
特に若いうちはまだ体力というリソースによって抵抗が強く働くが、歳をとると体力でカバーでき無くなってくる人も多いだろう。

フィクションやドキュメンタリーの世界では、構成の都合上、困難は一過性の事として描かれ、次第に回復するという筋書きがされることが多い。
だから、多くの人は、人は困難にあたっても回復するという前向きなイメージを持ちやすいが、現実の人生には、反復性の困難というものが存在する。
人はひたすらに困難が続き続けると生命力自体が減退して、回復しない。
だが、回復しないストーリーは人々の共感を集めないので、世の中からはないことにされやすい。






私のことを話すと、
去年、大きな出来事があったが、そこから
普通の人が人生に1度、もしくは10年に1度しか起きないようなことが、毎月ペースで発生して、最近、人生に対する抵抗力を完全に失った。

興味深いなと思ったのは、周りの反応である。

例えば親が交通事故でなくなり失意の最中に夫が失業、本人はがんで手術、という話があったとしよう。
(去年親の件で色々調べた時に知恵袋をよく見ていたのだが、世の中にはこういうパターンは実際に時々ある。また自分もここまでは行かないが、概ねこれに近い。)

交通事故のことあたりでは、自分もショックが大きく周りの助けがないと生きていけないので周りに話す。
周りはものすごく心配してくれる。
実際、周囲の優しさによって自分も回復していく。

夫が失業あたりも周りに話すのだが、この辺から様子が変わる。
まず、立て続けに重い話が続くため、本人は周りに本心を言い難くなる。
そして、周りも励ましでも励ましても辛いこと、という状況に防御反応が起き、話を聞くことが辛くなってきたり、表向きは心配するものの、他者の困難に向き合う集中力が切れてくる。
「そんなにダメなことになってるんだね」などと無神経なことを悪気なくポロッと言われるのもこのフェーズだ。
これにより、当事者は人に話しても無駄だという失望感が増す。
(ちなみにこれらは実際いわれたことなのだが、そもそも無神経な人として定評がある人物を、そうは言っても悪いところばかりじゃないし、と周りに置いておくと、普段は良くても、こういう危機的な状況では命取りレベルのダメージを与えてくるんだな、と新鮮な発見があった。皆も人間関係には注意しよう。)


その後、手術の話になると、展開が決定的に変わる。
本人はもう周りに言わない。
我慢して言わないと言うより、度重なる疲弊により、この頃になると悲しむ体力も無くなっているので、人に話したいと言う感情が湧かないのである。
人はこうして生きる気力をうしなうのかと、このことに気づいた時には一抹の感動を覚えた。
また、そういう体験から、
「自分の人生が、他の人の人生と明らかに別物で、もう分かり合えないところまで来てしまった」
という核心を持つに至る。




一言で言えばこういうことだ。
こうして、学習性無力感が確立されてゆく。
そして、それは言葉にしなくても伝わるもので、どんなに慈悲深い友人も、ここまで来ると一定の距離を保つようになってくる。

よく単身高齢者は孤立しないように社会と関わりを持ちましょうなどと言うが、今と思うと馬鹿げた話である。
人は、孤立するから社会でいきられなくなるのではない。
何らかの事情により社会の外れ値となることで、結果として孤立するのである。



こういう過程を経て、人は生きるための抵抗力を失う。
冒頭で述べた
「社会で孤立していて、もう福祉の介入無しにはどうしようもない状態なのに、口添えに消極的な人」
の完成だ。

面白いことに、ここまで来ると人はストレス障害(トラウマ、うつ)にはならない。
受け入れてしまってるからだろうか。
考えるとストレス障害は、現状が嫌だ、なんとかなってくれ、という人生に対する抵抗力が残ってるからこそ罹患する病気なのかもしれない。


こういう事態になるのは、本人のせいなのだろうか。
日頃の行いが悪いからだろうか。
もし日頃の行いで人生が変わるのであれば、カルロス・ゴーンはもうとっくに通り魔に襲われてるし、凄惨な事件事故の遺族は、皆前科十犯の極悪人でなくてはおかしい。
そして、全国の刑務所の入口は、出所者が車に轢かれることで有名な事故の名所になるはずだ。
でもそんな話聞いたことがない。

運命と言えばそれまでだが、人の人生は、おおよそ生まれた場所、生まれた家庭、遺伝子(特性や性格)によって選択の余地ない状態だといえるだろう。
全ての事柄が運命とはいえないし、ある程度努力で変えられる部分もあるが、でも大きな局面の出来事の発生確率を、自分の努力で操縦できるとも思いがたい。

人は、自分の成果が自分の努力によってもたらされたと思いたい生き物だが、実際は、天の力によって無作為に割り振られた遺伝子という小舟に乗せられ、意志の力の及ばぬ海のなか、力無く流され続けるだけの些末な存在だ。

そして、優雅なパラソルとソファの備え付けられた立派な小舟であっても、穴が空いてるせいでひたすら水を掻き出し続けないと沈む小舟であっても、その充てられた舟を変えることは出来ない。



最近、
「この門をくぐる者、汝、一切の希望を捨てよ」
という神曲のフレーズを、ふとした時に思い出す。

国立西洋美術館にある、このフレーズを主題に作られた彫刻「地獄の門」の後ろは、背後から見て見ても、普通に美術館の敷地と生垣があるだけである。

以前この彫刻の裏に回った時
「なるほど、これがかの有名な地獄の門の地獄側か。なんだ、何も無いし普通だな。当たり前だけど。」
と思ったことを思い出す。

今思えば、私は地獄を、不穏な空気を纏ったもっと明快なものだと思っていた。
でもそうでは無い。
地獄は、どこか一線を超えた先にあるものではなく、当たり前のようにこの世の中に溶け込んでいるのだ。
彫刻の裏の、何の変哲もない生垣みたいに。


つまり、人は地獄に落ちない。
気づいた時には、ごく自然に地獄のなかにいるのだ。







これは完全に余談だが。
長い間なぜサイコパスは生存しているのだろう、という疑問を持っていた。
人間社会にとっては搾取体質で不利益が多いのに、遺伝子としては淘汰されず、人口の数パーセントを占めるほど繁栄しているということは、何らかの明確な強みがあるはずである。

そして考えてみると、サイコパスは、もしかしたら、こういった情緒に絡んだ学習性無力感に対しての耐性がめちゃくちゃ強いのではなかろうか。
なにせ情緒が元から死んでるので、人の生死、病気くらいで凹むこともないだろう。
死にたくないなどの我欲は強そうだが。

こう考えると、どんな人間にも捨てるところがないのだなぁと感心する。
世の中全てうまいことできてるし、何一つ上手いことできてないとも言える。




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